アベの「譲歩に見せかけたムシ」と、加藤の「冷笑を伴う全否定」
まぁ、これはタイトルどおりで、とにかく彼らには、「真摯な姿勢」というものが、とことん欠落しているようだ。
アベの口ぐせになってるのが、「いずれにいたしましても」という言葉。それは一見、「そういう意見も考慮いたしますが」というイミが内包されてるかのように見えるけど、実際には、いっさい相手方の意見に向き合っていないというのは自明のことだろう。
基本的に英語では although(…だけれども、)という単語は「譲歩」という役割をもつ。そのときには、そのあとに述べられることのほうこそが、論者が主張したい内容になっているものだろう。この文法を使うと、多少なり反対の意見を考慮に入れて、なおかつ自分は「よりよい」意見を言っているんだという雰囲気を出すことができる。
ではアベロボットがやってるのはどういうことかというと、
「たしかに○○であることは承知しておりますが、いずれにいたしましても……」
という趣旨の言葉を吐くことには吐くが、その「中身は完全にムシしている」と言えそうだ。つまり、ほんとは深くはぜんぜん「承知」してないのに、自分が「知ってるフリ」をしているってことになる。
ではなんでそこで「真摯な姿勢」を取れないのかというと、その後者の「自分の主張」をゴリ押しするのがすでに既定路線で、相手方の意見などハナから取り入れる気なんかないからだ。
これは「民主主義」とは程遠い姿勢だと思える。ほんらいのイミでの「民主主義」は決して、「多数派の意見」あるいは「権力者の意見」をゴリ押しすることじゃない。ほかの意見も加味した上で、多くの国民との「コンセンサス」をつくっていくものだろう。それがもはや、アベ政権のもとでは息も絶え絶えになっていると言えそうだ。
彼らがやっていることは、自分への「反対意見」を言ってくる人のほうが「おかしい」というレッテルを貼ることだと思える。だから、どれだけ野党の議員が国民の意見を代弁していようとも、「そんなこと言ってるおまえらのほうがおかしい」という印象を与えることに躍起になっているわけだ。基本的に、野党(特に共産党)の議員が熱弁しているときは、腕組みをして、目をつぶっていることが多い感じがする。それは、「この人たちの意見は汲み取るに値しないですよ」という印象を国民に与えて、ハナから取り上げる気がないからだろうと思える。
でももちろん、その中で述べられる意見が傾聴に値するかどうかは、しっかり国民自身が吟味しなくちゃいけないだろうけど。
加藤厚労大臣はその点もっと露骨で、「いやいや」という言葉を冷笑とともに発する。こないだは「責任転嫁してないですよ」って言ってたな。
この態度からすると、あたかも相手方が「取り上げるに値しない、まちがった意見」を言っているかのように偽装することができちゃうが、ほんとにそうなのかってのはよくよく吟味しなくちゃならないだろう。
ほんとに「誤解」してたのは「国民」のほうなのかって話だけど。
まぁ、まとめると、「見た目にダマされちゃいけないですよ」って話になりそうだ。