メキシコとフェミニズムと私の夢
数年前から私はジェンダー学というものを勉強している。
そして今、メキシコでその学問を学びたいとも思っている。
しばらく下火だったメキシコへの熱が再燃した頃、
ふとメキシコにおけるジェンダー関連の論文を読んだ。
論文によると、
・メキシコでは1970年代より男女の社会、経済、福祉の格差を是正しようとする活動が続いている
・性教育では、中等教育から成人にかけて性教育に割かれる時間と労力も日本とは比べ物にならないほど多いし大きい
・毎年更新される「ジェンダーギャップ指数ランキング」において、2020年現在メキシコの順位は25位である
・メキシコ国会での女性議員数は男性とほぼ同数であり、職業による性差別も見られない
私は思った。
きっとメキシコでジェンダーギャップは最早無いに等しいのだ。
日常でもきっと性差別なんて見られないのだろう。
仮に差別があったとしても、正しい方向へ導く環境は整っているはずだ。
そう勝手に思い込んでいた。
そんな折、私はフェミニズムを学ぶメキシコ人と知り合った。
出会ってから今まで、彼女とはメキシコと日本のジェンダー格差や実際に経験してきた差別体験などを互いに話し合ってきた。
いつも会話の中でメキシコが直面しているジェンダー問題を知り、私は事の深刻さに毎度戦慄している。
日常茶飯事となっている家庭、職場、友だち間でのセクシュアル・ハラスメント。女であるというだけで受ける生活の中の差別、暴力、そして殺人。
私が思い描いていた男女平等を達成している「25位」の国、メキシコとはかけ離れた姿がそこにはあった。
彼女の話を聞くうち、私の頭には4年前にメキシコ留学で出会った人たちの顔が思い浮かんだ。
子どもの送迎に行くために昼寝中の父親を置いて不機嫌そうに店を抜けるトルタ屋の母親、女の子はサッカーゲームをするなとゲーム機を取り上げられて泣いていたホームステイ先の女の子。
あの時あの光景を目にして私が抱いていた違和感は、日常における性差別の片鱗だったのだ。
「ジェンダーギャップ指数」の順位。
あの順位はただの数字でしかなかった。
数字の上では職業や社会の取り組みなど、第三者から目につきやすい差別は是正され完遂したかもしれない。しかし、他人からは見えにくく統計の取りにくい性差別、性暴力に苦しむ人の数は、その順位にどれほど含まれているのだろうか。
友人の話を聞いて私が思い出したメキシコ人の日常は、まさに統計に挙げられにくい性別違和を感じている人の姿だ。彼女たちの抱いていたかもしれない違和感を無視することは私にはできない。どうしたら彼女たちの存在、気持ちを可視化し、見えにくい性別違和を日常から取り払うことができるのだろう。
今、私には夢がある。ジェンダー研究で得た知識と経験によって、多くの人を性の固定概念から解放し生きやすい世界へ導くというものだ。そのためにまずは、メキシコのジェンダー研究専門家として第一線に立ち、メキシコの情報をありのまま世界へ発信することが必要であると考える。8年以上続くメキシコへの思いを乗せた、より良い世界を求める情熱がメキシコ留学を所望する源となっている。