資料:世界基督教統一神霊協会の年表
私は統一教会とも、反統一教会とも戦っているので、単なる資料です。出発時は少し違ってましたが、世界を俯瞰して見れば、共にDS(ディープステート)コントロール下という根っこがあり、反日です。現状、後者のほうがメディアを通して虚偽をばら撒いているので、悪魔性は高いです。
Wikipediaは100パーセント信用できる情報ではありませんが、大きな流れを知るうえでは参考になります。
世界基督教統一神霊協会の年表 - Wikipedia より抜粋
1940年
2月11日 「江本龍明」と創始改名。
1941年
4月2日 上京。同月 「江本龍明」の名で、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科(夜間の各種学校)に入学。朝鮮人学生二、三名と新宿区戸塚二丁目(現・新宿区西早稲田一丁目)にある三橋孝蔵・イト夫妻の家の2階に卒業するまで下宿。昼は川崎の製鉄所や横浜の造船所、運送運搬、練炭屋のアルバイト、などのさまざまな日雇い仕事をしていたとする。
1944年
年初 鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職。4月25日〜1945年5月21日 「シオン山帝国事件」。長老教伝道師の朴東基が、慶尚北道青松郡にて、朝鮮半島の独立と「シオンの山の帝国」の建国を宣言。
5月 崔先吉と「聖婚式」を挙げる(「血分け」を行う混淫派とも言われる李龍道(イ・ヨンド)派の「イエス教会」の幹部である李浩彬(イ・ホビン)の司式により行われたとも言われる)。
10月 文鮮明が日本留学時の抗日運動の事実が発覚し、京畿道(キョンギドン)警察部により連行され、拷問を受ける。しかし複数の信者の証言により、文鮮明の背中には傷が無いことが判明している。よって日本警察に拷問をされたというのは箔をつけるための虚言であると考えるのが妥当である。
1945年
2月 文鮮明が半死状態で釈放される。
3月 鹿島組に再就職。
4月28日 崔先吉との婚姻届を提出。
8月 日本敗戦により退職。
10月 郭山の警察に一時拘束される。
10月 京畿道の坡州のイスラエル修道院 の金百文(キム・ペグムン)[36] のもとで学ぶ。京城の永登浦区域所(現:永登浦区)上道洞の礼拝所で補助引導師を務める。
10月25日 イスラエル修道院で金百文から「ソロモン王の祝福」を受ける。その後、「自分はソロモン王の直系の子孫の末裔だ」と信じるようになる。
1946年
4月 金百文が自分の弟子たちに降りた「文鮮明がソロモン王である」という啓示を信じず受け入れなかったため、文鮮明はイスラエル修道院を去る。
6月6日 天啓により、妻と3ヶ月の息子「文聖進」(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く(神が用意した神霊集団を統合し直すためとされる。それらの集団は「混淫派」や「霊体交換派」と呼ばれる「血分け」を行う者達だとも言われる)。
朴雲女(パク・ウンニョ)と共に布教を始める。
6月11日 金百弼(キム・ウォンピル、三弟子の1人)が弟子となる。
8月11日 牧師の訴えと李承晩(イ・スマン)のスパイ嫌疑(風俗紊乱の容疑だったとも言われる)で大同保安署に拘束される。
大同保安署に3ヶ月収容(獄中に、再臨主を待つ「腹中教」の教祖「許孝彬」(聖主教平壌教会長「李一徳」の妻)とその幹部もいた)。朝鮮労働党当局による拷問を受ける。11月21日 釈放。
複数の信者の証言により、文鮮明の背中には傷が無いことが判明している。よって朝鮮労働党当局に拷問をされたというのは箔をつけるための虚言であると考えるのが妥当である。
1948年
2月22日 平壌内務署により拘束される。
4月7日 文鮮明は、「社会秩序を乱した」という社会紊乱罪で[42]、重労働5年の実刑を受ける。
4月〜5月 平壌刑務所に収監される。
5月20日 興南(フンナム)収容所(徳里特別労務者収容所)[43] に移送、収監される。肥料の山を移しかえる仕事をさせられる。
文鮮明が収容所に送られてきた朴正華(パク・チョンファ)を弟子にする。8月15日 「大韓民国」成立。
年月日不明 洪順愛、共産勢力が強まってきたため、母親と娘を連れて南韓のソウルへ避難。
9月9日 「朝鮮民主主義人民共和国」成立。
1950年
6月25日 朝鮮戦争(6・25動乱)勃発。
8月1日 国連軍、興南工場を爆撃。
10月14日 大韓青年団の奇襲により解放。
10月24日 平壌に戻り、弟子を訪問。
12月4日 弟子と共に、大韓民国の臨時首都となっていた釜山府(現:釜山広域市)へ避難する。
1951年
1月4日 1・4後退。洪順愛、大邱にて、先に来ていた聖主教の「鄭錫天」長老と会う。
1月27日 釜山、草梁駅に到着。
1月28日 日本留学時代の友人「厳徳紋」に出会う。
5月11日 「原理原本」執筆開始。
8月 ダンボール小屋(ボンネッコル教会)を建て、布教開始。
1952年
5月10日 文鮮明が1年をかけて、自らの教えをまとめた「原理原本」を書き上げる。同日、高麗神学校(現在の高神大学)の学生でキリスト教の伝道師、姜賢実(カン・ヒョンシル)が文鮮明を訪ねて来る。後に入教。
12月 済州島から李耀翰(イ・ヨハン、り・よはね)牧師が訪ねて来て入教。
1953年
7月27日 朝鮮戦争休戦。
12月 ソウル大学出身の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)が入教。
195?年
年月日不明 金徳振の提案で、本名の文龍明を文鮮明に改名[45]。
1954年
5月3日 (公式は5月1日)ソウル北鶴洞(ポクハクドン)391において「世界基督教統一神霊協会」を設立する。最初の会長は李昌煥(イ・チャンファン、後に脱会)
1958年
空気銃の生産を開始(仁川の朱安工場から出発)。
6月 韓国の西川勝{韓国名は崔翔翼(チェ・サンイク、または崔奉春(チェ・ボンチュン))1985年に脱会}が宣教のために、国交のない日本に密入国。不法入国で逮捕された後、逃亡した西川は各地を転々と逃げ回った。同じく密入国していた金明煕をかくまっていた品川の霊能者、志賀如心の所にも身を寄せたという。全国モーターボート競走会連合会(後の日本船舶振興会)の会長 笹川良一が密入国で逮捕された西川の身元引受人を買って出たが、文鮮明は「日本の陰謀だから、帰国するように」と指示したため、西川は韓国へ帰国。
1963年
児童舞踊団「リトルエンジェルス芸術団」を創設。
立正佼成会の庭野日敬会長が、創価学会対策、安保対策のため青年部員達を統一教会特別修練会に参加させる。立正佼成会会長秘書であった久保木は2年後の1965年に日本の初代教会長になる。
6月26日 文鮮明が『天勝号』の進水式を行う。船舶事業をスタートさせるが、負債が膨らみ、事業は失敗する。
7月24日 ソウル市民会館(鍾路区、現・世宗文化会館の位置)にて124組(124双)の合同結婚式。初めて対外的に公開された式。笹川良一が参列。
1966年
韓国で機械製作会社「統一産業」を創設し、軍需産業に参入。代表理事は文鮮明の又従兄弟の文成均(ムン・ソンギュン)。
1月10日 韓国においても「原理研究会」を設立。
4月15日 韓国・水沢里統一産業工場落成式。M16自動小銃の大量生産を開始。
1968年
1月1日 文鮮明の妻の韓鶴子が7年間の試練を乗り越えて、真の女性として完成し、この地上に初めて“神の家庭”が立ったとして文鮮明が「神の日」を宣布。
1月13日 韓国で反共主義の政治団体である「国際勝共連合」を設立。
2月 「幸世物産」(現:「ハッピーワールド」)が韓国から空気散弾銃2千500丁を輸入する。その後、空気散弾銃を猟銃としての所持が認めないように法改正がなされ、競技用としての輸入を警察庁に打診したが、空気散弾銃の競技という実態がないとして輸入の許可は却下された。
4月 自民党 の元首相岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人として、日本でも「国際勝共連合」を結成。会長に久保木修己統一教会会長が、名誉会長に笹川良一が就任。
2月22日 ソウル市民会館にて430組(430双)の合同結婚式。久保木修己日本統一教会会長(当時)夫妻が、日本から初めて祝福に参加。「430という数字は、世界的なカナン福地に向かった第3イスラエルの世界的出発を意味します」(1977年2月13日に語られたみ言)
7月7日 江利川安栄が東京都小平市の朝鮮大学の正門前で共産主義を批判する勝共講義を始める。
10月5日 教団関連の商事会社、「統一産業」株式会社(「幸世物産」から商号変更、現:「ハッピーワールド」)(前:「幸世物産」 渋谷)がエアライフル2,500丁を輸入し、教団の信者がセールスに歩いて売る。
11月 「統一教会」の学生組織である「原理研究会」のメンバーが「鋭和B3」という散弾銃を一般の銃砲店を通さずに会員だけで1,000丁所持したいと許可申請を出したが、警察庁保安課が「単なるスポーツ用の銃とみるには不自然」と判断し、既に許可済みだった3,050丁分の許可が取り消される。
1970年
「統一産業」が輸入禁止された散弾銃に代えて、韓国から「鋭和3B」という単発銃の輸入を始める。
4月9日 久保木会長がパイプを持っていた岸信介元首相が 「統一教会」本部で東京地区の信者約4,000名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励。
5月1日 文鮮明が来日し、日本で初めて合同結婚式が開かれる(22双のうち10組は既成祝福)
7月13日 東京神宮前の東郷記念会館で「赤色帝国主義に抗議する集会ー囚われたる欧州諸国民の週間・日本大会」が開催される。「国際勝共連合」 が生長の家、「世界反共連盟」日本支部等の団体と共に参加。
1975
7月 教団関連の商事会社「統一産業」株式会社(渋谷)が銃砲販売専門の子会社「アングス」を設立。統一教会の会員が35の直販店の経営にあたり、年間約1万丁を1丁2万円で輸入、主に信者向けに販売する。翌1976年に『朝日ジャーナル』(12月号)が報じる。
1984
勝共連合を反共主義運動の同志と考えていた民族派や右翼が、副島手記にある、久保木修己会長が、天皇の身代わりで、文鮮明に拝礼しているという内容に激怒し、久保木会長に質問状を出す。3ヶ月後に久保木は、副島手記の内容を否定する回答をした。
久保木勝共連合会長の講演会、「平和と安全を守る七大都市大会」が行われる。大阪大会では、右翼や民族派が「勝共運動は、文鮮明の手先」「世界を股にかけるペテン師の金集め」などの批判ビラを会場周辺に張り、「大会粉砕」を訴えた。
1985
1月 民族派団体一水会代表の鈴木邦男が『朝日ジャーナル』2月1日号で、「勝共連合は民族主義運動の敵だ――文鮮明王朝建設に利用される日本の若者」と題して、統一教会の反共は方便であって、実際は共産主義的であり、文鮮明は日本人の贖罪意識を利用して、文王朝を目指していることなどを指摘。民族主義運動家たちが、統一教会を仲間とみなすことに警告を発する。