ぼやき
どうも、アラマキです。
ボヤキ的な。なんかもやもやすること。
ちょっと吐き出します。
ぼやき
こどもとかかわる中でやっぱり色々ともやもやすることがある。
でも、ただこのもやもやはこどもに対してではなく、大人に対して。
こどもたちと接するときに大人に必要なことは頭を「ほぐほぐ」することやと僕は思う。
できる限り、頭を「ほぐほぐ」しとるつもりではおるんですけど、最近ちょっと頭が凝り固まってきたなと思って反省した次第。
所謂、「大人」というカテゴリーに入る僕。どうしても生きてきた『経験』なるものが、自分の正しさの指針的なものになっちゃう。
ただ、そこに常に疑いを持って接していなくてはならんなと思う。なんていうか、一般的に正しいと思うものに従って生きてきた僕としては特にやっぱり疑問に思っておくべきなんかなと。
今でいう、批判的思考’(クリティカルシンキング)的な?
僕が今かかわってるのが中学生ぐらいの子たち。
中学生といえば、多くの人が迎えるだろう高校入試という壁?がある。
で、やっぱり大人たちは焦ってしまうことが多い。
不登校のこどもたちはテストを受けたことがなかったり、授業にでてないから勉強の内容がわからなかったり。
だから、中学3年生とかになってくると大人が焦ってくる。
受験の大変さを知っているから。
最初に考えるのは、進路をどうするか。進学するのか就職するのか。
就職するって言ったら、ついつい厳しさを言っちゃう。大変だよーって。
フリースクールにかかわる大人が基本的に、高校行って大学行って就職するっていう感じの人生を歩んでいるから。
だから、どうしてもそこの経験がないし、社会経験を含め、中学卒業後の大変さはすごい伝えちゃう。
で、今度は高校に行くってなったら、受験が大変だから勉強しようってなる。早く勉強しなきゃいけないっていう。
学校の区切りってあるもんだから、かかわる大人たちは焦っちゃう。
中学3年生でいったん義務教育の区切りがつくからなんとかしなきゃっち。
大人の焦りは子どもたちに伝播しちゃう。子どもたちは大人の焦りを感じ取って焦っちゃう。
で、子どもたちもかしこくて大人の期待に裏切らないように反応する。
一緒に子ども焦って、大人はこれで正しいと思っちゃう。
大人っていうのは優れた部分で言えば、生きてきた年数なのかなと思う。
子どもとは違う世界を知っているってだけ。
だからこそ、「こうしなきゃいけないよ」「こうしなきゃ危ないよ」「いまのうちだよ」とか焦りとかこうしなきゃとかじゃなくて、『こういう世界もあるよ』って教えてあげることが大事なんじゃないかなって思う。
高校入試に向けての勉強も。
勉強したから「偉い」って無条件につけがちやけど、なんで勉強してんのかっていうか、その子が目標にするところまでは言わんけど、将来期待することに向けての理由を作れるように手助けできたらいいのかなって思う。
「今日いっぱい勉強したね、偉いね」っていうのは、結果だけをほめててプロセスを大事にしてないなと思う。
勉強したってことだけ褒めてると勉強することが目的になったり、高校にとりあえず行くことが目的になったりして、向かうべき目標を見失うんじゃないかと思う。
中学生にそんな将来の夢とか具体的な夢を求めてもっち言われるけど、別にそんなに大きな夢を持たせたいというわけじゃない。
これから先、自分が楽しい人生を歩んでいく選択肢を教えてあげるのが必要で、そういう選択肢が選べる方法のなかで受験とか就職とかという選択肢を選べるようにしていくことが必要なのかなと。
その中に勉強というものがあるわけで。
例えば、すごい勉強する子がいたとして、なぜ勉強するのか尋ねたときに「怒られるのが怖いから」「所謂いい子でないといけないと思っているから」とかは、先がなくてその場しのぎの感じかなって思う。
そういう状態の子に、妄りにプロセスを知らずにそれをほめると、その気持ちが増幅して勉強することが正しいになっちゃうんじゃないかなって。
それって先につながらないような気がするし、大人がその先を提示することを放棄して楽な道を歩んでいるような気がする。
うまく言葉にまとめきらんし、もっと言いたいことはあるけどちょっとここまでで。
うまく言葉出来そうになったらまた書くかもしれない…です。
誰もがこの限りではないと思う。ただ、盲目になってはいけないなと思っています。
最近、自分の頭が固まって子どもたちを真正面から受け止めていないと思った自分に対してのぼやき。