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「法の下の平等」から -探求する旅路・随想編②-
社会派の朝ドラが完結した。TVドラマがタブー視してきた数々の題材を正面から取り上げたチャレンジャー的 傑作だった。
改めて「成熟した市民社会」とは何か? を考えてみた。
ドラマでは、いまから80年も遡る当時の法曹界のフロンティアたちの論点がこの令和の時代もなお同じ問題を抱えて、該当する人の生きづらさに繋がっていたり、希望を奪ったりしていることを痛感した。制度面、あるいは人々の理解・認識において期待される変化がビックリするほど遅々としているのだ。
おおよそ人間は本人を取り巻く 半径〇〇m 的な世界の中で生きていると思う。もちろんそれは自分自身を含めてのこと。ネットやTVの映像ニュースでいくら外の世界を見ていちおう知ったつもりになっていても、真の意味ではほとんど解ってはいないのである。実際の目、手足を使ったアクセス有無、そしてその蓄積が現実にはものを言うのだ。
日本は、前述ドラマと時代が被るが、先の大戦後のおよそ半世紀のあいだ、規格化された製品やサービスを実直な国民性で量産供給し、がむしゃらな高回転で経済を廻してその過程で高度成長を遂げた。それはひとたび世界を驚愕させたが、その後は「失われた30年」と揶揄される踊り場をずっと私たちは生きている。政治家も経済人も一般大衆も皆、旧式の成功セオリーを今も妄信して、中々抜けきれないのかも。え? トリクルダウンですって? 「ウソこけ!」とソコは返して進ぜよう。
「急がば回れ」とも言う。日本が30年(あるいは80年)間も代り映えしないのであれば、私たちはプライベート時間で職業とは違う領域へアクセスを創って、その経験を積み重ねてみることが実効的な社会変化の糸口になり得るのでは!? と思い至ったのだ。
半径を拡げ、日常のベクトルと違う領域へ自らアクセスしに行くこと。何でも良いけど。でももしそれが社会課題と向き合う市民活動の類ならきっと今は最高だろう。「職業人, プラスOne」として二足の草鞋を履きませんか? の提案とも言い換えることは出来る。専門家任せで「ボク、ワカリマセン」とせず、様々なバックグラウンドを持つ人の入り混じりに向けて勇気をもちダイブしてみる。少し大げさに言うなら、いろんな人が共生するこの社会の真の民主主義形成プロセスを実際に入り混じって参画し、前に進めるということ。世界の光景もきっと今までと異なって見えて来るだろう。実際、自分の場合がそうだった。プラスOne領域の方でも意見してみたくタマシイがうずく。
狭い固まった守備範囲に留まり、他の領域の問題は専門家やお上の仕事、というのが世の人の意識であり続けるなら、真に成熟した市民社会の到来はこの国ではまだ気が遠くなるほど先の将来のこととなるだろう。
(2024.9.29 記)
[フォト:みなとみらい21]
*記事とオリジナルフォトは特に関係ありません