新しい版のためのあとがき
まえがきに書いたように、このもの語りは、ちょうど日華事変のおこった1937年7月にはじめて世に出ました。
その数年前に満州事変がありました。日本国内のいろいろな行き詰まりを突き抜けるために、武力をもって大陸に押し出そうとうい考えの人たちが、この事変以来はっきりと表面に立って、自分の考えどおり日本を引きずってゆこうとしはじめました。まもなくドイツでも、ナチスをひきいるヒットラーが権力を握って総統の位につき、やはり力づくで国内のゆきづまりを打開しようとしていました。イタリアでは、すでにムッソリーニが早くから同じような権力を打ち立てていました。のちに同盟を結んだこの三つの国では、このもの語りの書かれたころ、年ごとに国民の自由が奪われてゆき、平和を愛する人々、国民の幸福と権利を守ろうとする人々が、一日一日と苦しい立場に追い込まれていました。このままでゆけば、世界中を巻き込む大戦争がさけられないのではないか、日本は無謀な戦争に突入して取り返しのつかない運命に立ちいたるのではないか、―――数年後には事実となってあらわれた、この予想と心配とが、私たちの心のなかでだんだん濃くなってきました。
しかし、残念なことには、そのころ、新聞も雑誌も乱暴な権力には敵せず、次第にその力の前に屈し、のちにはむしろ進んでその力をほめたたえるようになってきました。日本の少年少女雑誌は、ヒットラーやムッソリーニのような男を英雄や偉人のように書き立てましたし、子どもの本を書く人々の多くは、日本ほどすぐれた国は世界にないという、まちがった思い上がりを、年のいかない人たちに熱心に吹き込んでいました。
そういう時代に、そういう事情のなかで、このもの語りは日本少国民文庫のなかの一つとして書かれました。日本少国民文庫は、山本有三先生が、この時代の悪い影響から少年少女を守ろうという動機からはじめられたものでした。次の時代をしょって立つ少年や少女たちが、その精神を狭い日本だけのなかにとじこめられず、世界に向かって目をひらき、長い歴史の上に立って今日を考え、どんなときにも人類の将来に対して希望をつなぐことを忘れないように―――、という山本先生の願いから、一六巻の文庫が考え出されたのでした。たしかに、そのころわが国では、自分たちの人種や自分たちの国ほどすぐれたものはないという狭い考えがしきりにとなえはじめられていましたし、また、戦争をほめたたえたり諸国民のあいだに憎しみの感情をあおりたてる言論がさかんにおこなわれはじめていましたから、それとは逆に、日本人の目を広い世界や人類の上にそそがせ、人間らしい人間関係の美しさを愛し平和を心から求める心情をつちかうことは、ほんとうに大切なことでした。ことに、まだ社会の利害関係のなかに巻き込まれていない少年や少女たちの胸の中に、それが世の中の利害によってまだにごらされていないうちに、しっかりとこの精神を植え付けておくことは、ほってはおけない大事のことでした。次の時代は、この人たちの肩にかかっていたからです。そして、それだけのことは、私たちにもできるはずでしたし、また、しなければならないことでした。
このことにだれよりもさきに目をつけられた山本先生の見識は立派でした。その上に先生は、平凡な人間には到底望めないような情熱とねばり強さをもって、この計画の実現に努められました。いま述べたような考えをただそれだけお説教するのならやさしいことですが、それを気品のある楽しい読みものとし、あたまに理解されるだけでなく、感情にも浸みとおるようにして、一六巻の文庫にまとめあげることは、けっしてなまやさしい仕事ではありませんでした。私がこの文庫の計画にあたって先生のご相談にあずかったばかりでなく、とうとう編集主任として実際の仕事をもお手伝いすることになり、二年あまりにわたって、ほとんど全生活をあげてこの文庫の完成のために働くようになったのも、当時、私が先生の並々ならぬご好意を受け、いろいろとお世話になっていたという個人的な情宜からばかりではなく、ひとえに先生のこの態度に感動し、先生の意図に心から賛成できたからでした。先生は、この仕事の途中に、非常に重い眼病にかかられ、一時は失明されるかも知れないといわれたほど重態だったのですが、最後までこの仕事を続けられました。
最初の計画では、一六巻のうちでいわば倫理にあたる「君たちはどう生きるか」という一巻は、山本先生が執筆される予定になっていました。ところが、先生の眼病のために残念ながら先生の執筆は望めなくなりましたため、私が原稿を書くことになりました。私は、倫理の話ばかりで埋まった一冊の本を十三、四の少年に読ませる自信も勇気もありませんでしたから、先生の許しを得て、かってに一つのもの語りを考え出し、そのなかに少国民文庫の趣旨をもりこんで見ることにしました。そうしてできたのが、このもの語りです。
最初発行されたときには、このもの語りに、山本先生の随筆を三つ加え、全体としての一巻を山本先生と私との共著ということにして出版しました。こんどは、このもの語りだけで一巻とすることになりましたので、私だけの著書ということになりました。しかし、このもの語りの成り立ちについてお話したとおり、これが生まれてくるについては、山本先生のこの仕事に対する熱心というものが、非常に大きく働いています。個人的な話になりますが、これを書いているあいだに先生が私をはげまし、私にあらゆる便宜と自由とを与えてくださったことは、いまもなお私の忘れられないところです。
なお、このもの語りは、いまから十年ばかり前に一円(いまなら百円にもあたるでしょう)の本十六冊をそろえて子供に与えられるような中流以上の家庭の子供たちを読者として予想し、その立場から世の中をながめ、その立場から問題を取り上げるようにできています。このもの語りの主人公がデパートメントストアの屋上から下のまちを見下ろすところから話がはじまっているのも、そのためです。ところが、戦争にやぶれた今日の日本では、そういう中流の比較的ゆとりのあった家庭の大多数が、戦後の経済によって手痛い打撃を受け、もはや戦前の位置をたもてなくなっています。社会全体に大きな変化が生じてきて、生活の苦しさが大部分の国民を飲んでいます。ですから、いま、このもの語りのような性質の本を書くとしたら、上から下を見下ろす形でなく、むしろ下から突き上げてゆくような形にならなければなりますまい。そういう形のよい読みものが、これからきっと生まれてくるだろうと思います。このもの語りは、おそらく、それまでのつなぎの役をつとめるにすぎないでしょう。
しかし、そういう点に問題はあっても、このもの語りで少年や少女たちに伝えようとしているもの、言いかえれば日本少国民文庫の(判別不能)今日でも強く主張されていいだろうと思います。いや、むしろ、今日こそ一層つよく主張されなければならないのではないかと思われます。なぜかといえば、戦後わが国では、憲法をはじめ多くの法律や制度が根本から改められ、たしかに一つの新しい時代にはいりましたが、その制度をうちから満たし、これをほんとうに生命のあるものとするかしないかは、その制度のなかに生きる人間によります。人間の考え方や感情の動き方が、制度にふさわしいものにならない限り、制度は死物となってゆくほかありません。その意味で私は、偏狭な国粋主義をのぞこうとした日本少国民文庫の趣意が、今日では十年前とはべつの意義をもって生きなければならないと思います。その上に、わが国にはまだまだ古い国粋的な考えが根深く残っておりますし、戦争はすんでも次の戦争の危機や、それを待ち望む気持ちは、けっしてまだなくなってはいないのですから―――
このもの語りは、私として少しも誇るだけのものはないのですが、これを読んだ方が、これからの日本とこれからの世界とについて、少しでもまじめな心をよせるようになってくれたら―――、そして、よい美しい世の中をこさせるために歴史の輪をまわす仕事に喜びを感じるようになってくれたら―――。どんなにうれしいことだろうと、それをひそかに願っています。
一九四八年六月 吉野源三郎