電脳知能の拡大
人工知能ならぬ、電脳知能はどこまで拡大するか
まず、いま人工知能を、学習であり、準備されたデータの量であり、過去や現実から切り取られた断片的なデータの集合であるとする。ならば、現実の中を能動的に動き、景色を直接見て学習するシステムが得た知能は「人工」なのだろうか?
学習のために用意されたデータが写真であれ文章であれ動画であれ、人工的なデータであるならば、それによって発達した知能は人工知能と呼ばれても不思議じゃない。
しかし、自ら眼を持ち、耳を持ち、鼻を持ったとき、それは自ら体感するはずだ。例えば霧に霞む景色。晴れているときよりも遠くが見えなくなるという視覚的な変化、遠くの音が聞こえにくくなるという聴覚的な変化、湿度が上がったときの匂いの変化。それらの経験は、人間に教えられたものではなく、それ自らが獲得したデータだ。そういうデータが集積したものを私たちは「人工知能」と呼ぶのだろうか?
「人工」という表現は近く古くなるだろう。 "Artificial "とは呼べなくなる。
さて、機械のセンサーは私たちが感じ取れていない物も検出することが可能です。電磁波然り、振動然り、磁場然り、ニュートリノなど然り。私たち人間の五感を超える感覚と共にそれが体感したデータはどのようなものなのだろうか。
また、この感覚は、私たち生物が新たな感覚を手に入れるよりも早く増えていくだろう。
私は、これの名前をとりあえず電脳、電覚、電体と呼称し、服のような身に付ける物として想像しています。義手のように生体を無くして取り付けるのではなく、手袋のように着るもの。脳も然り。電脳であり、その知能は電脳知能かと。名前は他の表現の仕方の方が善いかもしれません。
となると、この電体と生体はどのように感覚を共有できるのだろう。
残念ながら生体は、感覚器がないデータをどれほど与えられても受け取れない。紫外線は当たり前のように毎日降り注いでいますが、私たち人間の生体は見れませんよね。
しかし、たぶん、電体は生体が受け取っているデータを受け取れるようになっていく。そして、電体の電覚が拡大していく速さに生体は追い付けず、感覚における生体の生覚が占める割合は小さくなっていく。
(電体が感じる感覚を電覚と称するように、ここでは生体が感じる感覚を生覚と呼称。”感覚”はそれらの総称とした。)
ここでも、人間が世界を支配していなければならないとする志向は試練を潜ることになりそうですね。
読んでくれてありがとうございます。