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ドッグランにおける”区別”は必要なの?
ドッグラン
という犬を放し飼いにしてよい区画が公園の中にあったりします。私が見た公園では、このドッグランの中は更に区分けされていて「大型犬はこの区画へ」「中型犬と小型犬はこの区画へ」といった具合に区別されていました。
最初これを見た時、私は理解できませんでした。
この区別が必要だという事態が理解できなかったのです。
私はしばらく考えて
「タバコの箱に書いてある裁判避けの宣言と同じだろうか?」
と思ったほどです。
裁判避けの宣言とは
例えばタバコの箱には、タバコの喫煙は健康に悪いだの、ガンの発症確率が上がるだの書いてあります。「そんなに害があるなら、作るな、売るな」とタバコ会社に言いたくなりますが、タバコ会社がこの警告文を書いているにはちゃんとした理由があります。
タバコ会社はこの警告文を書くことによって、次のような””宣言””をしているのです。
「我々タバコ会社は、このタバコの喫煙に危険があることを消費者に知らせ、警告もしました。それでも喫煙したのは、消費者が喫煙することを選択したからです。よって””このタバコを喫煙したことによってどれほどの健康被害や死人がでたとしても、我々は責任を一切負わない””」
全国でタバコの喫煙が原因だと考えられる症状や死者が出ても、この宣言のお陰でタバコ会社は安心していられます。裁判になっても負けることは無いからです。
つまり
ドッグラン内で犬を区別する案内を見た時、私は公園の管理組織が次のようなことを考えたのだろうと推測したのです。
「この中では犬同士が遊ぶ。どうせ遊んでいる最中に何かの問題が起こるだろう。その責任を我々の監督責任にされたくはない。ならば、最初から区別するよう表記して区分けしておけば””我々は安全だ””」
しかし、私のこの推測は外れているようでした。どうにも、この大型犬と中型小型犬を区別するという向きは一般的な対応であるようなのです。「怪我をする可能性」を排除しようという対応です。
ですが、それもおかしな話だと思うのです。そういう怪我をする可能性と、交流、交際、対話、繋がりの模索は、有って当たり前なのではないでしょうか?
よく言いますよね。
恋に恋する人に向かって
「なぜ告白しないの?」「傷つくのが怖いの?」と。
そしてこう言うのです
「やってみたら?」「傷つくことを怖がっていたら何もできないよ?」
犬が少しくらい傷ついてもいいじゃん。
傷ついて、傷つけて、触れ方を勉強していくのではないでしょうか。
人も、犬も。
読んでくれてありがとうございます。