ヤフーで経験した衝撃的備忘録
2008年から2018年までヤフーで働いていました。今思えば、すべての仕事がヤフーだから経験できることばかりで、大変なことも多かったですが(これから書きます)、飽きることなく成長できたと思います。今はこれまでの経験を活かしてVponという会社にいます。
もはや歴史なので同じことは起きないと思いますが、これから社会に出る学生や転職してどんな規模でどんな立ち位置の会社で働ければ自分が楽しく過ごせるかを考えている方にご覧いただければ幸いです。
【1位】ヤフーの検索エンジンをGoogleの検索エンジンに切り替える(2011年頃)
この頃、国内での検索といえば、Yahoo! JAPANとGoogleのほぼ2強でしたので(Bingもありましたが)、ヤフーとしてはいかにしてユーザーにGoogle検索ではなくヤフー検索を使ってもらうかという毎日でした。ある意味、ド競合です。(ヤフー検索をググるって社内で言っちゃって良いのかなとか)
そんなある日、オフィスのあった六本木ミッドタウンのフロアの一角に急遽、「ちょっと集まって」みたいな感じで集合がかかりました。そして・・
偉い人「今後、検索エンジン、Googleになるから」
自分「は!?」
厳密には、自然検索の箇所と検索広告の箇所と分類されますが、両方です。衝撃でした。そんなこと、あるのかと。
今となれば、Googleの存在感から考えると「へえ」なのでしょうが、中にいると「へえ」では済まなかったです。多くの検索エンジンの移行プロジェクトが数多く発足され、どれぐらいの期間で移行したか忘れましたが、最後は六本木のマハラジャ(クラブ?ディスコ?)で数百人の打ち上げをやりました。
Googleのプロダクトってこういう思想なんだなとか、ヤフーとGoogleはこういう違いがあるんだなとか、そういう意味では「へえ」と思うことが多かったです。自分の部署では、外部のサイトにヤフーの検索エンジンを提供していたので、ひとつひとつ企業に説明して切り替えていくという気の遠くなる話でした。
【2位】インタレストマッチプロジェクト発足(2012年頃)
通称「IMPJ(アイエムピージェイ)」と呼んでいました。今思えば(全部そうなんですが)、まだ経験不足な自分には大変刺激的なものでした。要するに「弱小プロダクトをなんとかせよ」という会です。
ほんとに弱小で(笑)、関係企業の方々からクレームの電話がよくかかってきてました。(直接、謝りに行ったりしてました。)
「ヤフーさんのせいで売り上げが半分減ったじゃないですか!どうしてくれるんですか!」
広告主側の広告効果(クリック、コンバージョン、透明性など)という観点や媒体側(インタレストマッチ広告を設置してくれているメディア企業)の広告収益性の観点など弱小の観点には色々ありますが、実際、広告掲載で収益を上げているメディア企業さんでは、毎月数千万円の売上が減り、お怒りもごもっともだったのです。
IMPJの刺激的なのは、これまでのヤフーのスピード感では考えられない空気感だったことです。各部署(営業、エンジニア、企画、アナリスト、媒体など)からそれぞれ代表者が集まり、毎日自分の席(いまでこそフリーアドレスや在宅という概念がありますが、当時固定席でした)に戻ることなく朝から夕方までPJのルームに籠もって議論や対策を練るというものでした。需要(広告主の出稿)と供給(掲載面)、そしてそれをつなぐマッチングテクノロジー、それらを考え続けることは個人としても勉強になるものでした。その後も多くの方の努力と貢献により、YDN、ヤフー広告としてリブランディングし、弱小ではないものになっていることを付け加えておきます。
【3位】同僚、先輩、後輩の方々(2008年-2018年頃)
自分が未熟だったこともありますが、ヤフーに入社して数年は特に、先輩や上司の偉大さが身に染みました。会議をしていても、頭の回転は速いわ、なんでそんな角度から意見言えるの、ということの連続だった気がします。今、自分はそうなっているのでしょうか。
単純に人が多いこともあると思いますが、少人数の会社では出会えない優秀な方、尖った方、面白い方、良い子から悪い子まで刺激的だったと思います。技をなんとか盗めないかと思わされる人も多かったですし、圧倒的に敗北感を感じるような優れた方も多かったです。(ベンチャーだとなかなかそれなりに経験値があって優秀と言えるタイプの人を採用するのが現実問題として難しかったりします。)
一時期、一斉に先輩・上司が退職し、自分の仕事が大量に増え、相談もできず、終電がなくなる日々もいい思い出です
新入社員も定期的に入って来ていましたが、個性はそれぞれであるものの光るものを持っている人や成長の過程を共にできる人もいて貴重な経験になったものの一つです。時には給料の悩み、性の悩み、異動の悩みを打ち明けてくれたり、キャリアをどう進んでいけばいいのかを一緒に考えるきっかけにもなりました。
【4位】社長が変わるということ(2012年頃)
当時のみんなはどういう風に感じていたのでしょう。部署やポジションやその人、それぞれなのでしょうが、私はこんなに会社が変わるものなんだという実感が強かったです。末端までそれが伝わってきているということは、全体としてすごいことなのだと思います。それまでは役所的と言われ、何か悪目立ちしないように黙々と働いていた気がします。それが、次々に大きな企業提携のようなプレスリリースがでて、部署の飲み会に社長(宮坂さんですね)が顔を出してくれたり、これまでは考えられないような空気があった記憶があります。
社長だけでなく、本部長以上のクラスの方がごっそり入れ替わってちょっとしたニュースにもなっていました。外からみたら「ふうん」だと思うのですが、実際そんな大胆な人事異動があると変わらないものも変わります。
余談:スマホの会社になるから、「仕事も全部スマホでやる日」みたいのがありましたが、普通に無理でしたw
【5位】全てが吹っ飛ぶデータビジネスの緊張感(2014年頃)
自分で手をあげて異動した経験が何度かありますが、データビジネスは前途多難でかつ刺激的なものでした。プロダクトでいうと、ヤフータグマネージャー、ヤフーDSP、ヤフーDMPというようなものでしたが、世の中的にも未知なる領域であったことで、毎日のように法務に相談にいったりしていました。データ事業は何か一つの不祥事でビジネスの全てが飛ぶという意識でしたので、独特の緊張感がありました。
実際、データで何ができるのかという時代の課題とともに試行錯誤が繰り返され、今の仕事でもその模索は続いています。
当時は、本当に死人が出るか、寿命が縮むのではないかと(大袈裟なのは大袈裟ですが)思うぐらい大変な時期もありました。目隠しで暗闇を前に進み続け、うまくいかないし、どうしたらいいか分からないことだらけで、やはり相談したり本音で話せる同僚はこういうやばい時期には大切だと改めて感じました。
余談:検索したらすぐにコールセンターから電話がかかってくる案件とか(※実現してません)、1年以上仕込んで発表後1週間ぐらいで終わったヤフーデータフィードとか、試行錯誤の日々でした
【6位】オーバーチュアの吸収(2008年頃)
ヤフーでは経験した限りでも、いくつもの会社を買収し、吸収後にほとんどの人が去っていくこともありましたし、技術が残らないこともありました。(クロコス社が黒子姿で入社してきたときは普通にビビリましたし、コンテンツマッチのブレイナーってどこいった?と言う感じでした。宮澤さんのシリウスは2010年ですかね)。
私はヤフーに入社した直後にOvertureの名刺でOvertureとして仕事をしていた複雑な環境だったのですが、Overture文化とプロパーなヤフー組織との交わる様を垣間見れた気がします。無理に互いのメンバーをチーム内に混ぜてみたり、しばらく分離して様子をみてみたり、時間の問題だったと思いますが複雑な状況だったんだと思います。例えば、Overtureは外資なのでニックネーム文化でしたが
「Allyってだれだよ?」
っとヤフー組織に言われて、Overtureの上司がブチ切れたと後で聞きました。もしかしたら、ベンチャーへの憧れはOvertureがもとになっているのかもしれません。
やっぱり、「あの人、オーバーチュア出身の人だから・・」とかそんな言い方もあったりするのが人なのですが、実際、ごたごたしても数年でちゃんと交わり合っていくのも人なのだと思います。もはや新卒は誰もOvertureを知らないでしょうけど。
【さいごに】
ありきたりな文面になってしまって、感じていたことよりもあまり臨場感がでませんでした。別にいいことばかりでもなかったし、悪いことばかりでもなかったです。とにかくすべての貴重な経験が自分の血となり肉となっているのは確かです。LINEとの合併やPayPayの躍動など、OBとして陰ながら応援させていただきます。
でも、私個人としてはあらたな進化をしていきたいので(しているはずなので)過去のことは過去のことで葬り去ろうと思います。