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とにかく1度読んでみて下さい!!

ほとんどの方が「はじめまして!」だと思います。実はまだnoteデビューしたばかりの私です。どうしても最初に出来るだけ多くの人に私の事、私の経験、私の考え方の方向を知って欲しいと思いました。私は62才、パソコンデビューは結構古かった(1990年頃Macデビュー)のですが、ネットに関しては中々世の中の早さについてゆけず、このnoteの自分のコンテンツをどうしたらより多くの人に見てもらえるか、今はその1点を考えています。ツイッターのアカウントはあるものの、まだ全く手つかずで、ブログも複数作って自分なりのSEO対策をしたものの来訪者が中々増えない状況でした。そして考えたのが、私の事を知ってもらえるには先ず初っぱなの記事は自分の事を書こうという事でした。その人がどんな記事を書く人なのか、どんな経験があるのか、おおよそでもわからないと読者は増えないと思ったからです。

noteをはじめようと思った動機

いま、テレビをつければ多くの番組でさまざまなコメンテーターが出演しています。でも、中々これは!と思うコメンテーターが出てきません。「自分ならこう言う」と地団駄を踏む思いでした。直近ですと、森会長の差別発言から次の会長の予測の話題で、水面下にはあったのかもしれませんが、川淵さんの名前は全く耳に入ってきませんでした。私なりに考えていて、ここは川淵さんだろうと思っていたところに、突然あのニュースが入ってきました。この件に関しては、既に私の別の記事に書いてありますので、興味のある方は是非お読み下さい。このことがあって、私がこれまで考えてきた事や、中々体験出来ない人生を送ってきた事等を、多くの皆さんにお伝えしたいという気持ちが益々強くなりました。

私の人生

私はごく普通のサラリーマンの家庭で育ちました。幼稚園の年長の時、先の東京オリンピックをテレビて観てスポーツに目覚めました。と同時にあの時のオリンピックファンファーレの音色とメロディーが強烈に残り、後に管楽器の道に入りアマチュアではありますが、プレーヤーとして10年指揮者として30年、音楽をライフワークとして人生を送ってきました。

政治に関心を持ったのは小学2年生の頃からです。ちょうど衆議院選挙が行われた頃からです。それからテレビでは討論会、新聞もその頃から読み始めました。父親には「子供は政治の事に口を出すな!」と叱られましたが、いま思えば当然の事かも知れません。それでも母親は私を理解し庇ってくれました。小学生では一人では入れない立会演説会に連れて行ってもくれました。

オリンピックがきっかけでスポーツに関心を持つようになった私が最初に夢中になったのは高校野球でした。私の母親が国体にでたこともある人物であらゆる球技が好きな人でした。そんな母親と一緒にテレビで銚子商業を応援したのが最初です。当時、銚子商業のエースは木樽正明(後のロッテのエース)で、あれよあれよという間に決勝まで進みました。決勝では敗れましたが、その時優勝したのが三池工業です。巨人・原監督の父である貢氏が監督でした。

実は、、、、、、。

私は過去の事に関する記憶、かなりの事を鮮明に覚えています。これからお話しする事は決して自慢話ではないのでどうかご理解下さい。お願いします。最近の事はすぐに忘れてしまうし、当然の事ながら欠点だらけの人間です。しかし、過去の事に関しては自分でも驚く程覚えています。友人からは「ホントに驚異的だなぁ」と言われます。こんなことがありました。姉の夫つまり義兄と私の間である口約束をした事があり、だいぶ後に義兄がそんなことは絶対に言ってない!と言った時、後から姉が、「きっと言ったんだよね、、、お前がそう記憶しているなら」とポツンと私につぶやきました。誰よりも私の事を知っていた姉だから、、ですね。

もちろん何から何までは覚えているわけはないのですが、幼稚園から高校まで一緒だった友人と最初にあった日の出来事や、今も親友でいる友人が幼稚園の時独唱した歌。高校野球を観ているうちに覚えてしまった全国の高校の校歌は50曲ほど。そんな訳で、今ではネットで調べてもまず出て来ないエピソード等も複数頭の中に記憶しています。後で別の記事で詳しくお伝えしたいと思うのですが、そのうちの幾つかを下記にご紹介します。

田淵選手のランニングホームラン!?

プロ野球・阪神で活躍した田淵選手は引退後「がんばれタブチくん」という大人気マンガになりアニメ化もされました。そのコミカルな内容と誇張された体型から、絶対に田淵選手にあり得ない事と言われた事が「タブラン」です。つまり田淵選手のランニングホームランを意味するのですが、これをネットで検索しても私がした中では全く出てきませんでした。私の記憶を確かめる為に探したのですが出てきませんでした。どこかで本人が語ったかどうかは分かりませんが、私の記憶が確かならば、田淵選手はランニングホームランを1度経験しています。法政大学のおそらく3年生(4年かも?)の時、アマチュア野球の国際大会があり、田淵選手は全日本(当時は日本代表とは言わなかった)の主軸でした。確か、山本浩二、高田繁、等がメンバーでキャプテンはその後大洋ホエールズで活躍した社会人野球の中塚選手でした。試合相手はオーストラリアだったと思います。テレビで観戦していた私が唯一覚えているのが、田淵選手が3塁を回った時の凄まじい表情です。あれは確かに田淵選手だったと思います。もし知っている方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

もう一つ野球からのエピソードですが、西武ライオンズで活躍した東尾修さん。箕島高校時代に春の選抜でベスト4まで進みましたが、その時彼はエースで4番。実況アナウンサーがこんな事を言っていました。当時は全て木製バットでしたが、東尾選手のバットのグリップの太さが他の選手と明らかに違う特注品で、このバットを高校生で使うのは王貞治選手以来だと。もし東尾選手が投手でなかったならば打者としても大打者になっていたかもしれません。

この他、スポーツでは数々の場面を観てきました。サッカーでは1971年に当時世界最強だった西ドイツのNo.1チームバイエルン・ミュンヘンを迎え当時はまだまだ弱小だった全日本チームとの一戦。相手はベッケンバウワ–やゲルトミューラーなど代表選手を6人も擁していましたが、弱小日本にはあの釜本がまだバリバリでいました。その放送でアナウンサーがこんなことを言っていました。バイエルンの監督に釜本選手の評価を訊いたところ、「ブンデスリーガに居たならばその中で5本の指に入るストライカーだ」と。今の若いサッカーファンに伝えたいのは、かつて日本にもサッカー界のスーパースターが存在した事。引退試合の時、相手チームであるニューヨークコスモスの神様ペレと釜本が同僚の肩に騎乗して国立競技場を一周した光景は今も目に焼き付いています。

このように今の若いスポーツファンが知らない事もどんどん伝えて行けたらなぁと思います。

書きながら、政治や大河ドラマを含めたドラマ、かつてのアイドル、音楽関係のこと、人生で最初に観た映画が忘れられなくてその後の生活に影響を与えた事など次々に思い浮かびます。自己分析をして、もし、もし自分の長所で役に立った事は?と自問自答すれば、それは引出しの多さだったかなと思います。スポーツはほとんど全ての競技、音楽はバッハからAKBまでフォークもロックもかつて自分でバンドもやっていました。大河ドラマは緒形拳の太閤記から見始めて麒麟がくるまで、途中日本テレビの青春シリーズに寄り道しましたが、、。プロレスはテレビの音を消して自分で姉に実況して笑われたほど、当時コンビニが無かった時代に駅の売店に毎日のように東京スポーツを買いに行っていたほどです。テレビ番組に関しては、家に1台しか無い時代に、録画も無い状態で、今思えばよく色々観られたなと。家で勉強しなかった割には成績はまあまあという感じでした。そういえば小学2年生の時に親に地図を買ってもらい毎日眺めていました。2年の遠足の時、バスガイドさんから富士山の高さ分かる人!と言われて、一人だけ手をあげて3776メートルですと答えました。理系は得意ではありませんでしたが、それでも宇宙には今も関心を持っています。

職業について

子供の頃、初めになりたかったのが、おまわりさん。その後がプロ野球選手、そしてサッカー選手、ここまで夢を諦めた理由は、おまわりさんは撃たれて死ぬかもしれない、野球の選手はデッドボールが当たると痛いだろうと。根性無しの理由ですね。サッカー選手は、当時プロが無かったから。その後はスポーツ評論家、弁護士、新聞記者と変わっていき、楽器店をやりたいと。しかし、実際は40年間ある分野の直販セールスとその内10年はその会社の経営に携わっていました。そしてセールスとして特に役立ったのが引出しの多さでした。セールスに必要なのは、先ずは真面目さ、熱心さ。そしてもちろん商品知識の濃さ。それでも実際には心をいかに開いてもらうかという事が大切です。話の入り口のところで全く前に進まない時、いかに相手の関心あるジャンルは何なのかを知る事に注力しました。事務所の中にあるカレンダーだったり、表彰状だったり、写真だったりからヒントを探り出し、相手の趣味やご家族の事に辿りつければ後は引出しの多さでした。専門的な知識はもちろんですが、出来るだけ多くの事に関して、相手に質問が出来る程度の知識が必要でした。このずっと続けてきたセールスに関してもいずれnoteにUPしたいと思います。出来ればその時は有料に出来るほどにしたいと思います。

経営者時代に出会った人達

経営に携わっていた会社はグループで100人程の中小企業でしたが、10年の間には何人かの著名人と会う機会もありました。レーガン大統領時代の司法長官とは退官後に来日した際、ひょんな事から会食をし名刺交換もしました。またピコ太郎(古坂大魔王)とはまだ有名になる前ですが一緒に食事をし色々と芸能界の裏話も聞きました。田原総一朗さんの講演会では、最後に田原さんが何か質問はありますか?と問いかけた際、1000人近くいた聴衆の誰も挙手しない状況に、思わず手をあげてしまいました(笑)度胸というより、瞬間的な勢いでした。

学生時代にすれ違った有名人

学生時代、私は著名人の多く住んでいる世田谷区のアパート住まいでした。大手スーパーでバイトしていましたが、1979年の12月30日に来店した女優の五十嵐淳子さんのお買い物の助手をしました。五十嵐さんとはその1年後に当時の電話局で順番待ちの隣の椅子に座っていました。

青空が広がる爽やかな日に、住宅街を歩いていると、真向かいからエレガントに歩いてきたのが檀ふみさん。クルマも人も誰もいない閑静な家並みですれ違った光景は、まるでドラマのワンシーンの様でした(笑)

笑点で座布団を運んでいた松崎真さんはパチンコ店で良く見かけました。当時は多くの店で行われていた打ち止め台の開放があると、必死に走っていました。

その他、私はエキストラのバイトもしていたので、多くの芸能人と会う事が出来ました。有名女優がエキストラの私達を呼んで、イイモノ見せてあげるといきなり上半身裸になった事や、西武警察のロケ中、偽パトカーで首都高を走っていたら、その日は厳戒態勢で警官に呼び止められ交番につれていかれたりと。(その日は韓国の全斗煥大統領が訪日する日でした)それらの逸話は別の記事で書きたいと思います。興味のある方は是非読んで下さいね。

私のリクルート活動

学生時代、ある事情があって私の就職先は早々と決まっていました。今は1部上場企業になっている会社です。そのため就活は全く行いませんでした。当時、よもやその26年後に100社以上の就活を行うとは想像も出来ませんでした。

不摂生からきた複数の大病、そしてそこから得た患者の視点からみた予防策

私はこれまでに手術を4回経験しています。中三の時の盲腸手術はその後の人生の方向を変える出来事でした。22才から悩み始めた「痔」の痛みは強烈でした。少し痛みが治まったと思うとまた再発して遂に40才で手術をしました。恐らく今も痔に悩んでいる方は数多くいると思います。そんな人達に伝えたい事がたくさんあります。これものちほど記事にします。48才の時に役員をしていた会社を辞め新しい事業を始めると決断し、退職の引き継ぎをしている時、血を吐いて病院に運ばれ入院しました。当初は胃潰瘍と診断されましたが、実は胃ガンで全摘手術を行いました。リハビリの中新規の事業の話は消え無職となってしまいました。家の高額のローンは始まったばかり、就活100社でやっと決まった会社が実は世にいう超ブラック企業でした。その一連の中で次々に起こった信じられない出来事の中、いつのまにかうつ病になっていました。その後うつ病を克服し運命的な就職をして3年後に今度は胆石と尿管結石の痛みがダブルで襲い、胆のう摘出の手術をしました。

こうして書いている途中でもあれやこれや思い出しますが、これから順次noteにUPしていきたいと思います。誰もが知っているようで以外と知らない入院と手術の費用、国からの給付など。うつ病というのはどういう状態なのか、壮絶な日々を記録しています。また全身麻酔を経験した事による人生観の変化など。様々な出来事を経て現在は一人暮らしです。大切な大切な家族とは別れました。遠くない老後の事を考え、このnoteが皆さんからの支援を少しでも多く頂ける様な記事を書いて行きたいと思います。学生時代、小心で融通のきかない人間だったために起こった警官とのやりとりの数々や、うつ病の中でほぼ感情を無くした状態で大笑いした唯一の出来事等、皆さんにおもいきり笑って頂けるだろうエピソードもかなりあります。

この記述を最後までお読み頂いた方に、心から感謝申し上げます。出来ましたなら今後とも宜しくお願い致します。最後に、現在予定している記事のいくつかをご紹介させて頂きます。ありがとうございました。

                     2021年2月19日

予定記事

人生の絶頂期、やはりその後は下り坂、そして崖だった。

反面教師が知った病気の原因と対応策

僕とおまわりさん(すべて実際に経験した事です)

セールス成功事例集(誰にでもわかりやすく作成します)

実録!ブラック企業

うつ病克服(私の場合)

名もなき一般人の天声人語

最近のテレビ番組に思う事

不思議と起こった10年周期の出来事

忘れがちな自然の力

私の過去の記憶にある世の中のさまざまな出来事(知っていて損は無い事)

駆け引きとは?駆け引きの究極は駆け引きをしないこと

私が出会った有名人

世の中が変わってきた!

哲学をもったリーダーこそが地球を救える。

地球連邦を考えた事がありますか!(ロッキード事件で田中元首相の逮捕に踏み切った稲葉法務大臣が最終的に目指していたもの)

失恋とUFOの存在の類似点

2004年7月28日 人生初めてのうれし泣き 号泣のわけ

常識とは?

不思議な関係 表と裏

57才で逝った無二の後輩の超破天荒な人生(笑えるエピソードも多数ありますが、とにかく凄い奴でした。)



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