二代目が考える、カメラマン気質って?
子どもの頃から、父はもちろん、父の友人や身近な大人がカメラマン、という環境で育ったからか、カメラマンってこんな人?
っていうカメラマン気質というか、上手く言葉に表せないような、ある共通の匂いのような何かを感じている。
今回は、それを文章に起こしてみることにます。
あくまでも、わたしの勝手な解釈だとも言えますので、ご理解の上、気軽に楽しんで読んでいただければ幸いです、笑
さて、父に続いて私も写真を仕事にすることになったのですが、
フードコーディネーターでもあり、写真家でもあるのは、
父に二足の草鞋を履きなさい、と言われ続けてきたことがある。
その理由は、成功している人の多くはそういうふうだと言う話と、父はそうなれなかったけど、とにかくかっこいい、というような話だったと思う。
実際、今のわたしのスタイルになって、気づくことは、
仕事をしながら、ずっと勉強し続けられる、ということだ。
フードコーディネーターとして、様々なカメラマンさんとご一緒させていただく機会があり、
また、カメラマンとして、様々な料理人さんやフードスタイリストさんとご一緒させていただくこともある。
2つの役割をときに立場を変えるから、ありがたいことに現場は常に学びの場である。
そういった意味でも、たくさんのカメラマンさんに出会うので、
表題の、私が考える、カメラマン気質っていうのが的を得ているとすれば、
私の中でますます確信が深まって来るのだった。
ただし、わたし自身に、このカメラマン気質が十分にあると言えないことも知っている。
例えば、どんなタイプかなと言うと、大勢でわいわいと集まるような場で、中心になって話したりはしないのに、目立たないわけではない、どこか独特のオーラを放っているような人だ。
私はと言うと、子供の頃は自己中心的な性格だったため、客観的に見るという視点は、父から受け継いだものなのだろうか、後天的に出てきた気質のようで、半分は得意なようで、半分は苦手だ。
「世界を客観的に見る」という視点に立つ意識が自分の中に生まれなければ、写真を撮る事に夢中になることもなかっただろう。
まだアナログフィルムが主流だった時代、
カメラマン気質とは、まさにこれがある人なんではないかと思う。
今のデジタルフォトを扱うカメラマンと、それ以前のカメラマンで、タイプが変わってきているということもあるのかもしれない。
父との話の中でよくそれについてを話す。
アナログフィルムに光で焼き付けられた画像は、
現像が上がってくるまで、数日間、確認することができない。
もしかしたら、設定や、機械のミス、何か余計なものが写り込んでいる、何も写っていない、等があるかもしれない。
大掛かりな撮影になるほど、そのプレッシャーは計り知れないだろう。
だから、繊細過ぎるタイプの人は、
その現像の時間、というプレッシャーに耐えられなくて、どんどん辞めていったらしい。
デジタルになってからは、仕上がりの写真がモニターで即確認できる。撮影現場であれば、クライアントさんのご希望に合わせて、細かなところまで確認しながら撮影し、完成系の写真を見てもらい、納得がいく写真を創り上げていく。「大胆であり、良い意味でいい加減」というダイナミズムさを持ち合わせていなくても、繊細さと忍耐力があれば、カメラマンの仕事ができる時代になったのかもしれない。
アナログフィルム時代は、被写体、ライティング、全て整って、本番撮影の前、「ポラ」に写して現場のみなで最終チェックした。
わたしが料理撮影の仕事をはじめた、20代前半までは、まだ「ポラ」、ポラロイドというものが存在していた。ポラをチェックするのは毎回ドキドキわくわくした。それを記念にもらって持って帰って部屋に飾ったりもした。
今ポラロイドってほんとに見かけない。ポラロイド、どこいっちゃったんだろう!と、たまにふと思いだしたりする(笑)
例えば、何かをコレクションしたりするときも、手先が器用で、几帳面にとって置けるような方が多いように思う。
わたしの美術大学時代はアナログからデジタルへの過渡期真っ只中で、
1番自由に、たくさん写真を楽しんで撮っていた高校生から大学生の時期、
使っていたのはアナログフィルムカメラだった。
大学在学中に徐々にデジタルカメラを導入し始めた。
今でも、それは本当によかったと思っている。
なぜなら、
‘アナログフィルムカメラで写真を撮ること’ は、
当時から今でも変わらない、
私が、 ‘写真を撮る理由そのもの’ だからだ。
思春期になら、もしかしたらだれもが通る道かもしれないが、
当時、いつかくる死、ということがどうしても理解できなくて、
わからなくて、
考えて、考えて、考えて。
そんな時間の中で、
‘最高の今を生きて、その瞬間の、時間を止めて、未来に残す方法’
それが写真しかない。
18歳そこそこのわたしは、その結論に達した。
ほかにどんな方法も実現不可能に感じた。
光でフィルムに焼き付けられた、
「二度とこない最高の今」を写した、
‘ネガそのもの’ は、
これからもずっと此処にあり
いつでもまた見ることができる。
現像されたネガを手にして、すごくホッとした。
なんとも謎な感覚だ。
だけど、その感覚が今でも
私が ‘写真を撮る理由そのもの’ として私の中で息づいている。
とは言え、いま現在は、全てデジタルカメラで撮っているので、その写真は数字の配列で、いつでも消えてしまう可能性がある、だから本質的にはとても不安なのだ。笑
日芸写真科で、昨年度から銀塩写真の授業がなくなったらしい。わたしのセミナーに足を運んでくださった写真学科の教授から伺った。「ついに来年からなくなっちゃうんだよー!」と。
それでいいのかな⁈と思ってしまう。授業の中で、たった1限だけでもいいから、銀塩写真を取り入れて体験して知って欲しい、とわたしは思っている。
昔の話しなど鮮明に教えてくれる方が多いように思う。父の場合もそうである。
わたしの場合は、おそらく1番古いの記憶は、母親の腕の中で母乳を飲んでいるときのような光景と気持ちがうっすらと思い浮かべられた。
カメラマンは膨大な量の写真を持っていると思う。1枚1枚、シャッターを押すときに何らかの自分自身による判断をしてエネルギーが動いているから、全ての写真は記憶に残る。
色々な写真を見直していても、こんなの撮ったっけ?ということはまずない。
そうすると写真を撮り続けるだけでも、記憶力が高まっていくようにすら感じる。
ただしこれは、私の感覚では、ファインダー越しに撮影した場合の話で、
スマホやモニター越しに撮った写真の場合には、記憶の残り方が、同じようにはいかないように感じる。
父は、夜こそクリエイティブな時間だ、と言っていて、静かに、晩酌をし、本を読み、映画を観て、夜中まで活動していて、子どもの頃から父が夜寝ているのを見たことがない。
だからと言って仕事に寝坊するなどということは一切なく、自分の管理は徹底している。
原宿に40年間スタジオを構え、娘2人を美大に通わせ、カメラマンとして、社会人として、とにかくすごい、一流としか言いようがない。
姉は、ファッションデザイナーだ。よく、着たい服がないから作っちゃった、と言って、夜な夜な没頭して自分の服を作って、翌日楽しそうに着ていて、わたしは、また作ったの?と驚いていた。
わたしはと言うと、大学時代はダンス部で音楽やパフォーマンスに夢中になっていたので、夜中はクラブで爆音の中で仲間と楽しく過ごし、夜明けに帰宅し、朝を迎える頃の静けさの中で、朝焼けの光の中、夢中になって写真を撮る、という謎の生活を繰り返していた。
ようするに、わたしと姉、また父も、たぶん創作をはじめたら一晩中寝ないで没収するようなタイプだ。そんな人たちをまとめる専業主婦の母は、どれだけ立ち回りを上手くサポートしてくれていたのか、私も母となり主婦業をこなす今となってはそういう主婦目線ですごいと気付く。
二世代を通して、アナログからデジタル時代を通して、
感じてきたことを少し、今回は書き起こしてみました。
そもそもいろんな方がいて、いろんなきっかけがあって、
だからこそ面白いのは当たり前。
私にとっては、こうだよ!というのがあればぜひ教えてほしいと思います!
最後までお読みいただき、ありがとうございました☺︎