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私はコミュニケーションが取るのが苦手だ
良い人だと、友達だと言える人はたくさんいる、けどいつだってコミュニケーションを取るたびに、関係性を深める度に向いてないなと喉元がぐっと冷える感覚がする
言葉で、言い方で、相手が嫌な気持ちになる可能性なんてそんな面倒な事を考えるくらいなら誰とも関わらなくていいと考えることの方が多い。言葉は受け取る側次第だなんてそんなの、わからないよと心が不穏になることばかりで。発言をしてしまったら言葉は喉に帰ってこないのでまた選択を間違えたと脳みそからのエラーの知らせで気付く。コミュニケーションとは全くもって面倒にも程がある。独りで死ぬのに独りで生きていくことは出来ないなんて、なんて残酷なのだろうか。そんなグロテスクなことが当たり前になっている世界に気付いたらもう閉鎖的になるのは至極普通ではないのか。
私は嫌な事があった時に素直に心から相談できる相手などいるのだろうか。これから先どんな事があっても他人を頼れるようにはなれないだろうし、こうやって言語化することで消化するしか出来なさそうだ。適当にのらりくらりと生きていて自身がわからなくなる。こんなに自由なはずなのに不自由を感じている違和感。ふと自身が人間らしい振る舞いをしているだけ生き物な気がして、怖くなる。誰かを愛すること、自分を愛することを上辺だけで実際は愛なんて感情なんて知らなくて知ったフリをしているだけなのでは、と不安になる。私が知識や言葉を欲しているのは人間とは違う生き物だからなのかも、なんて思ってしまう。怖いと思う反面それの方が面白かったりして。命が尊いというのはエゴで押し付けられてみんながそういうので頷いて理解したフリをしている。結局のところ私は欠如している人間というだけで。地獄に落ちる人間というのはまさに私のことを指すのだろう。受け取る側がどう捉えるのかはわからないが、私はそういう生き物なのだと思う。そうやってわかったフリをして理解できない欠如している人間は世界から、社会からは異物だと指を指されることは慣れているからいいのだけれど。たまに認めたくないだけで。
他の人達は生活の中の違和感をどうやって消化しているのだろう。違和感に囚われて疑問視しているのは私だけなのだろうか。もはや肉体を手放してAIが私のフリをした方がよっぽど人間らしく丁寧に人を傷つけずに振る舞える気がする。勝手に怯えて億劫になって他者から逃げているだけなのに偉そうに語る事などないのだけれど。相変わらずのっぺりと薄く伸ばされた陰鬱は私を覆っていて理性がないまま餌を口に放り込む生活を脱する事ができていない。
本当に私というものが存在しているのか?未だに自身の存在を理解しきれていない。生を受けて私に自我があることに違和感を感じたのは小学生の頃で先生に私はどうして私なの?と私という人格の違和感を質問して困らせたことをよく覚えている。先生からの回答がなんだったのかもう覚えていない。
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