雑記
死にたい理由は探せばいくらでもでてくる。死にたいわけではないし今更自殺しようなんて思ってはいないが、ぼんやりと海が見たいという衝動はいい精神衛生ではないということはもうとっくに理解している。もっと早い段階で不安の輪郭を捉えていればもう少し生きやすいし明確な対応ができると思うけれどどうもぼやけて仕方ない。絵画の額縁のように、作品はここまでですと線引きされたらいいのに。
私はここ数年でメンタルコントロールがうまくなったし多少のことでは揺らがなくなった。美しいものを見れば美しいと思えるし、困ったら頼ることもできるし、疲れたらコーヒーを飲んで散歩して音楽を聴いて自分の機嫌を取れる。こうやって日記をつけることで心の内を整理してほっとできるようにもなった。私がもっと知識や学を詰め込んで言語化が上手になったらいいとは思うけど。心の揺らぎ(良くない方の)に対してこうやってどうにかメンタルコントロール出来るようになったのはダメになる前に何を話すでもなく時間を共有してくれる友人と、自身の揺らぎに対しての楽観的視点を持てるようになったことが大きくて苦痛を伴う我慢は良いことではないとようやく理解した。今年で26歳、気付くのが遅かった気もするがもっと早くに、と悔いている時間はない。年々時間経過が早くなってきて若くなくなってきたと実感がある。社会的に見たらまだ若いと言われるのかもしれないけれど若さはとどまってはくれないので動ける内に動かないといけない。動けなかった数年を悔いているわけではないし不要だと蓋をして捨てることは簡単だけど動けなかった私も私で今の私を形成している一部分だ。ここ数年私を巣食う"何者かになりたい"という不安感は至極当然な悩みで健全だなと寛容できるようになってきた。日記を友人に見られることにも慣れて恥ずかしさも薄れてきた。いや、少し、まだちょっぴり恥ずかしいかも。
ここまで書き連ねて唐突に散歩をしたくなり少し遠いコンビニまで行って、冷たいコーンスープを買った。(ローソンの、すごく美味しいのでおすすめ)帰り道がだんだん明るくなってきたことに気付いて少しだけ足を早めて帰ってきた。完全に朝になる前に自宅の中に滑り込んでほっとする。相変わらず太陽が苦手だしなるべく紫外線に晒されたくない。薄暗いワンルームが好きだと再確認した。定期的にくるぼんやりとした不安や憂鬱は真剣になりすぎずこうやってあしらってやり過ごす。真剣に向き合いすぎると不安の割合が増えてこちらが食われるのでこんなものでいい。
数日前に持病の治療方針を提示された。震えも動悸もずっと付き合ってきたものすぎてなくなることの方が違和感を感じそうだけどないにこしたことはない。これははっきりと輪郭を持った不安。普段のぼんやりとした不安や憂鬱よりよっぽどわかりやすくてまだいい。原因を理解しているから。内服薬の副作用で不眠があるらしいのでこれ以上不眠を拗らせたらどうなってしまうのだろう。医者からはたばこ辞めてくださいとしこたま怒られたし、来院も服薬もきちんとしてくださいよ、と咎められた。病院に行くといつも子供に引き戻される感じがして苦手だ。最初からきちんとしていればこんな指摘はされないのだろうけど。幼い頃病院でたばこを吸って怒られてるおじいちゃんになぜやめないのだろうと思っていたが今の私はちょーわかってあげられる。
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