願い
私は語彙力が乏しいし知性も品性も欠如していると日々痛感することが多い。友人からの相談にもっと的確な言葉があったのではないか、といつだって感じてしまう。その度にもっと知識や言葉を身に付けていたいと感じるのだ。
知識や言葉は自身を支えてくれるお守りになる時があるから私は知識も言葉ももっと知りたいと思うしシンプルに知識や言葉を知ることが好きなんだと思う。私は頭が良いとは何かと思考することにハマっていたことがあるがこれを他人へ投げかけると多種多様な回答があって非常に良かった。私自身は"概念に一定の基準を置かない人"が頭の良い人だと思っているので自分もそうで在りたいと思うがこれもまた難しい。常識や現実の中で縛られず固まらずいることの難しさや柔軟性を持つことの重要性を忘れずに歳を重ねたいと思って、願って。そう在るためになにをすべきかゆっくりじっくり考えて変化していきたい
最近は他責思考の人間に疑問を感じることが多いので何故なのかということを思考することに時間を割いている。自己肯定感と自己効力感の有無だったり逃避癖だったりするのだろうか。他人に嫌悪感を感じることはあまりないのだけれど苦手意識を持つ人間はいつだって他責思考の人間だったな…と思い出した。そしてなぜ他責思考の人間に強く嫌悪感を抱くのかももっとじっくり思考してみようと思う。大体自身がそういう人間で在りたくないという強い思想なのだろうけれど。心理学と精神疾患の関係性も含めて今度図書室に行った際にじっくり調べてみようと思う。合わせて自身の他責思考の部分も向き合いたい。誰だって他責したら楽でしたくなるものだから私だって環境や他人に、世界に後ろめたさを擦りつけたくなる。その度に他責と自責の狭間をぐらぐらとしてしまう。大人のくせにまだ心が幼くて恥ずかしい。曲解した他責は他者を傷付けたり不快感を感じさせてしまうことは理解してきたので自身のことを客観視できるよう努めたい。
世の中には言葉も知識も脳みそに入りきらないくらい溢れていて無意識に取捨選択をしているはず。だからこそ日常の中の言葉や疑問をもっと丁寧に大切にしたい。歳を重ねた時に若い時の自分も愛せるような人間でいたいと願うのは強欲すぎるかもしれないが、幸不幸問わず自分の選んだものを正解と思えるような人間でいたい。他人とのコミュニケーションも大切だけど自分自身と向き合うことも大切にしたいと思った25歳の最初で最後の秋
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