転勤族 3
処置を終え、ストレッチャーでベットまで運ばれた時、目にした不安そうな友人の顔は一生忘れる事はないだろう。姉のような存在で、福岡に越してから彼女にはいつも助けられていた。そんな彼女に心細い思いや心配をさせてしまった事は、本当に申し訳ないと思いながらも、更に彼女の存在の大きさに気付く私だった。主人も仕事場から駆け付け、夫婦で痙攣の内容と原因を聞き、その日のうちに退院する事になった。医師からは特に何も検査をすすめられる事はなく、痙攣止めで症状が安定したので、「過呼吸」という診断で数日間安静に過ごすようにと指示があっただけだった。
その後は普通通りの生活を送っていたが、この頃から生活の中で体に違和感を持つようになった。以来、たびたび起こる眩暈や体の痺れ、感覚の左右の違いや喉の違和感、酷い肩こりと首の痛みが頻繁に出る。それに40度の高熱で7日間の入院もしたが、この時も熱の原因がわからないまま退院になった。症状が気になり、主人に話しても「俺もたまになる」と聞き流され、身内や友人に話しても「どうしてかな?」と答えは出ず、整形・耳鼻科・接骨院・内科など受診を繰り返したが、なかなか原因は見つからず、漸く内科で付けてもらった病名が「逆流性食道炎」だった。病名が付いた事で安心するようになり、時々出る体の痺れも深く考えなくなっていった。体の異変を感じながら2年後、我が家は名古屋に転勤で移動することになった。
引っ越しは夏の暑い日だった。沢山の友人達に見送ってもらい、いい思い出ばかりの福岡を後にし、また1から違う土地での生活が始まる。この時、上の娘は中学1年生で2校目の学校。多感な年齢だが、学校や人にはすぐに馴染め、楽しく登校をしてくれているとばかり思っていたのは私だけで、子供達の間では苦悩の日々だったと知ったのは、随分経ってからだった。その時の寂しさも苦しさも痛みも、笑って話せる今がある娘達が本当に誇らしい。でも、それに気が付いてられなかった当時の自分には後悔が残っている。この頃から我が家に少しずつ忍び寄る、想像もしていなかった苦しい日々の始まりだったのかもしれない。