お笑い的な
(加筆)
この記事を書いた一年以上後に、ほとんど正反対に近いことを書いた記事を出しました。多重人格みたいになってますが許してください。
昔スマホに入れたメモを読み返していたら、
「お笑いは高度な芸術」
というメモがありました。
あー、そういやこんなこと考えてたなー。と思いつつ、このメモを残した当時の考えは今もたいして変わっていないので、今日はこのメモについて書いてみます。
結果が全て
お笑いが果たして「芸術」という言葉の定義に当てはまっているのかは分からないのですが、お笑いは他のあらゆるパフォーミングアーツに比べて評価のされ方が少し特殊だな。と思って残したメモです。
なにが特殊かというと、「笑う」という鑑賞者のリアクションによって評価されるという点です。
あまり芸術に明るくないので確かではないのですが、多分多くの芸術作品の評価は、それまでの通念をいかにぶち破ったか。既存の文脈に対していかに斬新なカウンターを出したか。など、割と論理的に評価されることが多いと思います。
一方でお笑いは、それを見た人の「笑いの量」という、ある種無意識に起こる生理的反応が評価の軸となります。
だから、いかにお笑いの歴史から見て斬新なカウンターを繰り出せていたとしても、それが鑑賞者に伝わらず「笑い」というリアクションを引き出せなければ評価されることはない気がします。
要は「結果が全て」ということですかね。ある意味残酷でもありますね。
あらゆる芸術分野で批評家、評論家と呼ばれる人が多くいるのに、お笑いにおいてはそうした人たちの存在があまり目立たないのも、お笑いのこういった性質からでしょうか。
お笑いの文脈
先ほども書いたように、評価される芸術作品というものは多くの場合、その分野で共有されている既存の文脈にカウンターを繰り出しているものだと思っています。
歴史に残っている芸術作品とは、当時の人から見てなにか斬新なことをやってのけているから評価されているんじゃないでしょうか。多分。
お笑いにおいてもこうした「既存の文脈へのカウンター」という形式は同じだと思います。
ただ、お笑いが扱う「既存の文脈」とは、「お笑い界で脈々と受け継がれた通念」ではなく、「その時世間の多くの人が持っている一般常識」なのではないかと思います。
一般常識で考えればこうなる。というものをみんなが考えている上で、それとは違う結果を見せることでそれが「ボケ」となって笑えたり、
一瞬では言語化できないほど微妙な程度で一般常識とズレた言動を見せ、そのちょっとした違和感をうまく言語化して代弁することが「ツッコミ」となったりするのではないかと。
巷には初心者向けの美術入門書、解説書といったものが出回っていて、僕もそういったもののお世話になることがよくあります。
その内容の多くは、芸術作品がカウンターを繰り出す対象としている、その分野内で長い歴史の中積み上げられた内輪の常識。つまり「文脈」を解説しているものです。
文脈を理解していないと、評価されている芸術作品がなぜ評価されているのか分からないからです。
でもお笑いを楽しむために入門書を読む人はいません。
だってお笑いがカウンターの対象としている「文脈」は、本で教えてもらうまでもなく知っている一般常識だからです。
お笑い的に
以上、お笑いに関するイタイ持論を展開してきましたが、このようなことを踏まえて、僕は「お笑い的」なものづくりをしたいと考えています。
つまり、その分野の文脈においてどう斬新なのかを小難しく説明するようなものではなく、それを見たり使ったりした人がどう感じるか。を基準に考えていきたいのです。
評論家や批評家の方々に、「くだらない」と鼻で笑われたとしても、業界人だけでなく一般大衆からいいリアクションを引き出せるようなものを作りたいんです。
いかに学問的に価値があるかではなく、いかにお金を集められるか。それにお金を出したいと思える人を作れるか。で考えたいのです。
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