「自分と「神様」との間の「約束」」
このnoteをいつも読んでいるあなたなら、もしかしたら、昨日、私は、「【宣言・コミット】「12/31まで、1日1000文字以上の記事を6記事書く」に変更(https://note.com/arishimat/n/n166d4a37fb94)」というタイトルの記事の中で、
「12/31まで、1日4000文字以上書く」
という、それまでの【宣言・コミット】を捨てて、
「12/31まで、1日1000文字以上の記事を6記事書く」
という【宣言・コミット】に変更したということを、ご存じかもしれない。
本当のところ、正直、
「こんな【宣言・コミット】をしてしまって良かったのだろうか。」
そんなことが頭をよぎることもあった。
だが、自分で【宣言・コミット】をした以上、「吐いた唾を呑む」という気にはならない。
それに「吐いた唾を呑む」という気も無い。
私は、本当は、「YouTubeに動画を投稿する」などの、「話すというアウトプット」に主眼を置いて、「アウトプット」の「筋力」や「体力」を付けていくということをしたかった。
だが、それでも【宣言・コミット】をした以上、やはり、「吐いた唾を呑む」という気にはならない。
それには「理由」がある。
その「理由」とは、【宣言・コミット】とは、そもそも、「今、この記事を読んでいるあなた」と「今、この記事を書いている私」との、2人の間の「約束」という意味合いも、もしかしたら、あるのかもしれない。
だが、何よりも【宣言・コミット】というものは、「今、この記事を書いている私」つまり、「自分自身」との間の「約束」という見方や、物事の考え方もできるからだ。
もし仮に、そういった見方や、物事の考え方をするとしたなら、それは、【宣言・コミット】とは「自分自身」という「一人称の視点」でもなく、ましてや、「今、この記事を書いている私」つまり、「自分自身」と、「今、この記事を読んでいるあなた」という「二人称の視点」でもない。
そこには新しい「第三の視点」というものが、存在しているのだ。
これは正直、抽象的で、上手く表現しづらい。
それに私は「神様」だとかいう言葉を使って、あまり物事を表現したくない。
それは「神様」という表現が、あまりにも抽象的な存在と言えるからだ。
ましてや私は、どこかの特定の宗教や、特定の宗派、特定の政党に属しているというわけでもない。
だが、「あくまでも「神様」という言葉を使って表現をする」とするのなら、それは、
「自分と神様との間に定めた「約束」」
にでもなるだろうか。
「神様と「約束」を交わす」ということは、
「たとえ、他者の目に見えないところであったとしても、手を抜いたりはしない」
ということに他ならない。
「「人が見ていないから」だとか、「他人が見ていないから」だとかいった理由で手を抜かない」
というのは、まさに、「自分と「神様」との間の「約束」」と表現するにふさわしいものではないのだろうか?
あなたは、「神に誓う」ということができるだろうか?
「「人が見ていないから」だとか、「他人が見ていないから」だとかいった理由で手を抜かない」ということが、本当にできるだろうか?
是非とも、自分に問うてみてほしい。
今回はここまで。
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