[短編小説]森の中のオルガン
「ぼく達は、大人になったら『南十字星』を見に行くんだ。宮沢賢治が憧れていた『南十字星』を見に行くんだ」
「『南十字星』ってどこへ行ったら見られるん?遠い南の国?」
「別に遠い南の国へ行かなくても見れるんだ。確かに、ここからは遠いけど『沖縄』へ行ったら『南十字星』が見れるんだ」
「沖縄へ行ったら見れる……」
「別に沖縄じゃなくてもいい、南半球へ行ったら見れるんだ。いつか、必ず二人で『南十字星』を見に行こう」
「わかった」
「約束だよ」
***** ***** ***** *****
そういえば、ここのところ、あの人は「手芸教室」にやって来ていない。
あの人、元気にしているかな……と、ぼんやり考えていた。
そんな時、偶然にあの人からの手紙が届いた。
でも、別に手紙をわざわざ郵送して送らなくても、手芸教室で直接、渡してくれてもいいのにと思う。
何か、あの人のこだわりがあるようだ。
いつもあの人は手紙を郵送で送ってくる。
だから私も、その返事の手紙を郵送で送っている。
今日届いた手紙に同封されている、あの人の「詩」には、ごくありふれた日常のことが描かれていた。
あの人の「心情」は今、あの人のことばを借りれば「平安」なのだろう。
あの人は「平安」な心情でこの詩を描いたのだろう。なので私はほっとする。
あの人の詩には「波」がある。
今回のように「さざなみ」の時もあれば、荒れ狂う「嵐の時の大波」の時もある。
たまにあの人は、詩を描く人達のサークルが出す同人誌に自分が描いた詩を投稿している。それがよく採用されている。
あの人は詩が採用されるたびに、そのページをコピーして私に送ってくれる。今回のもそうだ。
そのたび私はその感想を書いてあの人に送っている。
その同人誌の仲間の中に、あの人の熱烈なファンの人がいる。
たまに、そのファンの人があの人に花束を送ってくるそうだ。
それくらい、あの人の「詩」には何らかの「力」があるっていうことだと思う。
確かにあの人には才能があると思う。だけど、私は「詩」のことには詳しくはない。ただ「良かったです」だとか「力強い言葉だと思います」だとか「元気になれました」だとか「悲しい気持ちになりました」くらいしかその感想を書けないでいる。
私はあまりにも「詩」のことを知らなすぎる。
だから私は「詩」を描けないでいる。
私も、あの人くらいに若い頃に、立ち直れないくらいの、大きな悲しい出来事に遭遇していたら、私も「詩」を描いているのだろうか。
あの人はまだ立ち直れていない。
もう何十年も前の出来事に対して。
「詩」を描くことであの人は、この世界で生きて行くことができるのだろう。なんとか「心のバランス」をとりながら。
あの人はただ、あの人を「悲劇のヒロイン」に追いやった人物から、謝罪の言葉がほしいだけなんだ。
ただ、「ごめんなさい」の一言だけを待っているんだ。
だけど、そんなこと到底かなう訳がないということをあの人は知っている。
だから、あの人は「詩」を描き続けているのだと思う。
「これで私は生きて行ける」とあの人は言っていた。
「詩」を描き続けてこそ、あの人は生きて行くことができるのだ。
私はあの悲劇の人にとって何らかの「力」になっているのだろうか-。
確かなことは、私の拙い感想を書いた手紙があの人のささやかな「励み」になっていることだ。
私の手紙が、あの人の小さな希望の「灯り」になっていれば、それはそれは、光栄なことだと思う。
***** ***** ***** *****
またサツキが、自分の髪を自分でべたらめに切った。
そんなヘンテコになった頭を隠して、深々とネイビーのニットキャップをかぶって私のアトリエにやって来た。
「また、やってもた!」
と笑いながらサツキは言うけど、サツキの目は笑っていなかった。
「今回も、ベリーショートにしたらええんやね」と私はうんざりしながら言った。
「うん、お願いします!」
サツキのバサバサに切られた、痛々しい髪を見て、私はやるせない気持ちになった。同時にシュールな喜劇を見たかのような、よくわからないけど、なんだか、笑いたいような、おかしな気分にもなった。
「もう!いい加減にしいよ!」
「うん…これで終わりにする」
「ほんまやな?」
「うん、ほんまや」
というけど、信じてないけどね。
私は新聞紙を広げて床に敷いた。
そのまん中にサツキを立たせた。
サツキは両目を「ギュッ」と力を込めて閉じた。
私は美容師でも理容師でもない。
だから、自己流にサツキの髪を「普通のハサミ」で切り始めた。
丁寧に、慎重に時間をかけてサツキの髪を切っていった。
人の髪を切ることって、すごく気を使うことだ。素人だからなおさらだ。とても難しい。でも、もう慣れてきた。
この間、百円ショップへ行った時に、家庭用の「スキバサミ」があった。まさか100円ショップで、そういうものがあるとは思いもしなかったので、凄くびっくりしていた。それで、その時、それを買おうかどうかとすごく迷った。
今、普通のハサミでサツキの髪を切りながら「あの時、スキバサミを買ったらよかったな」ということを考えていた。又、近々そのうちに買おうと思う。
あんなことを言っていたけど、どうせ、またサツキは髪をべたらめに切ると思うから。
こんなことの繰返しだ。
サツキのそれは、まるで自虐行為だ、というか自虐行為そのものだ。
リストカットと同じだと思う。
自分で自分を傷つけているのは同じことだと思う。
毎回、毎回、私は「いい加減にしいよ」と言っている。
でもまだ「リストカット」よりは、ましかもしれないと思う。まぁ、髪をべたらめに切ることも大いに問題があることだけど。
私は時間をかけて丁寧にサツキの髪をベリーショートに仕上げた。
手鏡をサツキにわたして「これで、ええやろ?」と言った。
サツキは手鏡に写った自分の頭を見て「うん、これでええわ。ありがとう」と言った。
「ええかげんに、自分で切るのを止めて、真っ先に美容院へ行かなあかんで」
「わかっとるけど、『どうせ自分なんか』と思ってしまうねん。自分なんかどうでもええ人間やから、髪をきれいにカットする資格なんかあれへんねん」
「そんなことないわ。髪をきれいにカットする資格はあるわ」
「いや、私には無いねん」
「あるって!誰がそんなこと言うねん?そんなこと言う人なんかおれへんわ!」
「…ほんまやな…そんな人おれへんな…」
「おれへん、おれへん!」
「…ごめんな、こんなことばっかりで」
「かまへんで、サツキの、この『心の問題』が治るまで私は付き合ってあげるわ」
私とサツキは切った髪が散らばった新聞紙をまるめたり、掃除機をかけながらそんなことを話していた。
いつもと同じことだ。
それから柚子茶を飲みながら二人で「髪」のこととは関係がない、たわいない世間話をした。
サツキは私にかまって欲しかったのだな、って思う。
寂しかったのだな、って思う。
髪をべたらめに切るたび、その後始末を私に任せるのは、私に甘えている証拠だと思う。
私がいなかったら、たぶん、他の誰かにその後始末を任せているだろう。…でも、その「誰か」って誰だろう?…いないのではないかな、私以外には。
私以外の誰かだなんて、私には一人も思いつかないけど、誰かいるかもしれないけど。
私がいなかったら、サツキは、べたらめでヘンテコな頭のままで、出掛ける時はそれを隠すため、深々とニットキャップをかぶっているのだろう。
視線はずっと下にしたままで。
私が後始末をしてあげているから、サツキの視線は、前に向けることが出来ているのだと思うと「私も人の役に立っていることをしているのだな」と思える。
「髪」のことには触れないまま、サツキと話をしていた。
「髪」のことに、少しでも触れればその話が「重たい」ものになってしまうだろうから。
ここへやって来た時は、サツキの目は笑っていなかったけど帰る時には、目も笑っているようになっていた。
だから、それで良かったのだな、と思う。
また、来たらいい。また、繰り返してしまったら来たらいい。また、後始末をしてあげる。それくらいしか私にはできないから。
***** ***** ***** *****
それが、「その事」の始まりだったんだ。
それは、4年前の8月のことだった。
サツキと沖縄へ旅行へ行った。
8月の真夏の暑い時だというのに、サツキは真っ赤なニットキャップを深々とかぶって待ち合わせ場所にやって来た。
私が「どおしたん?こんな冬の帽子なんか、かぶって来て」と言うと「…ちょっとな…ちょっと、失敗してな…」とサツキは曖昧なことしか言わなかった。
サツキは深々とニットキャップをかぶったままだった。
そのまま飛行機に乗って私達は沖縄へ行った。
真夏の沖縄でのニットキャップはすごく浮いていたと思う。
だから私は何度も「その帽子を脱いだら?」って言ったけど、そのたび、サツキは曖昧なことを言うだけでニットキャップを深々かぶったままだった。
沖縄の観光は楽しいけど、サツキの帽子がすごく気になる。なんだか、そのために楽しさが「薄いもの」になっていくようだった。でも、1日目の夕方頃にもなると、「まぁ、気にしないようにしよう」と思うようになった。
その旅行の1日目の晩御飯の後にサツキが「実はな…」と言いながらニットキャップを頭から脱いだ。
「自分で髪の毛を切ってん、すごく変になってん。でも、ええねん、私なんか、そんなのがふさわしいから」とサツキが言い出した。
「何をしたんや……」私はサツキのギザギザに切られた髪を見て呆気にとらわれた。
でも、何故か「サツキだったら、そんなことをしそうだ」と妙に納得している私もいた。
だから、そんなにめちゃくちゃには驚かなかった。
また、悪い意味で「冷めた目」ではなくて、どこか「なんか、わかる」とも思ってもいた。けど、私なら、そんなことは絶対にしないけれども。
「ちょっと、出掛けてくるから待っといて」と私は部屋にサツキを残したままホテルから出た。
この国際通りにあるホテルにたどり着くまで、近くに100円ショップを見かけたので、そこまで私は行った。
その100円ショップで私はハサミと水色のバンナナを買った。
それからコンビニによって新聞を買った。
ホテルへ帰ってから私はサツキのべたらめに切った髪を「ちょっとでも、まともな頭にしてあげよう」と自己流にカットしてあげた。
私は人の髪をカットしたことはなかったけど、なんとか、おかしくはないほどにサツキの髪をカットしてあげることができた。
「おお、私にはそんな才能もあるんだ!」なんて思ったりして自分でも感心してもいた。
私がカットした髪を鏡で見てサツキは「ありがとう」と言って泣き出した。
オーバーなアクションはつけずに、静かにサツキは泣いていた。「ありがとう」と何度もつぶやきながら。
私は「これで普通に、当たり前の落ち着いた気持ちで旅行ができる」とほっとしたし、サツキもまともな頭に近づいたので良かったな、と思った。
思っていた以上に、私は上手にサツキの髪をカットをすることができたので、水色のバンナナは結局、使わずじまいだった。
私のカットが、おかしいものになってしまったら、そのバンナナをサツキの頭に巻きつけようと思っていたのだ。
ニットキャップなんかよりバンナナのほうがずっと「おかしくない」と思ったからだし、実際におかしくない。
それから私達は「普通」に旅行を楽しんだ。
サツキもずっと元気で笑顔だった。
ピザだけのお店のピザを食べたり、そのお店の庭から見える綺麗な海が見える景色をお互いに無言で眺めたり、南国特有の真っ青な海を見て「綺麗やね」「沖縄の海やね」とか話しながら海岸を歩き、貝殻を拾ったりしていた。
あの100円ショップで買ったハサミはホテルの部屋に置いて帰って来た。
まぁ、100円だからいいや、と思って部屋に置いてきた。
それにもしも、そのハサミを持って帰っていたら、そのハサミを見たり、使ったりするたびに「サツキが沖縄へ行くっていうのに、変な頭にしてやって来た」って悪いように思い出すのが嫌だったから、持って帰らなかった。
ホテルの人達には悪いけど、まぁ、持って帰ったらいけないものまで持って帰ってしまう人よりかは、まだましかなって思う。言い訳に過ぎないけれども。
せっかく南十字星が見えるところへまで、行って来たんだ。
楽しくない思い出は、いらないと思う。そんなのまで持って帰りたいとは思わない。
でもサツキの「髪の件」があったからこそ、そして、その問題が解決したからこそ、なんだか楽しかったことが一層深く「楽しい」と感じられる旅になったと思うし、美しい景色も一層「美しい」景色として見えることができた。
そういうことを「化学反応」を起こした、というのだと思う。
「髪の件」がなかったら「のっぺり」した面白味のないものになっていたかもしれない。確かに、楽しいことは楽しいのだけど「平凡」な旅になっていたと思う。
旅には、良いことも悪いことも、予想もしなかったことも起こるものだ。
だから旅へ行くには、行くまでいろんな「覚悟」をしてから行けばいいと思う。
だから、とても「お気楽」な気分のままでは行くことができない。悪く言うと「諦めて」行くものでもあると思う。
本当、「諦めてこそ」なことが色々あるものだ。
それを良いように言えば「諦めてこそ」イコール「心のゆとり」となるのかなと、思ったりもする。
「心のゆとり」があるほうが頼もしい。「ほっ」とする。
だけど、諦めてしまって「悲観的」になってはいけないけれども……うむむ、心のバランスをとることって難しいな。
でも、なんとかバランスをとって、これからも生きていけそうな気がする。
あの旅と同じように、良い「化学反応」を起こしながら。それを信じながら。
もちろん、人にもよるものだけど、人ってかなり「弱い」ものだし、同時にけっこう「タフ」で参っていても意外と立ち直るのも早いっていうこともわかった。身近に支えてくれる人がいれば、 なおさらに。
サツキが元気になってそう思った。
何かに参ってしまって、弱っている人も、何らかのちょっとしたきっかけさえあれば「元気」に戻れるんだ。だから私はサツキが参ってしまった時、元気に戻れるきっかけを与えられたらいいな、と思っている。私にでも、できることならば力になってあげようと思う。
参ってしまったり、元気になったりと、人は繰り返している。そんなことばかりだ。
同じことを何度も繰り返している。
私も同じことを何度も繰り返している。
私、「優しい人」になりたいって思った。
大げさにオーバーに優しいのではなく、自然にさりげなく優しい人になろうと思った。
***** ***** ***** *****
私が1週間に1日だけ、手芸屋さんの「手芸教室」で「アドバイスをする人」のアルバイトをしている。
手芸屋さんの端の方に椅子が12席もある大きなテーブルがある。
そこで手芸教室をしている。
そこにやってくる人々は各々、自分が作りたい好きな物を作っている。
私もそこで、自分が作りたい物をチクチクと作りながら「アドバイスをする人」のアルバイトをしている。だからいろんな質問をされる。
でも当然、私にも分からないことがある。その時は「ごめんなさい、わかりません」とはっきりと言っている。それからその人と一緒に、その事が分かるまで、それをどうすればいいのかと、考えたり、お店のパソコンで調べたりしている。
まったく頼りないアドバイスをする人だ。
だから「本当に私なんかでも、いいのだろうか?」と思うことがある。
その事を手芸屋さんの店長さんに言うたび、店長さんは「あなたが、居てくれるだけでいいの」と言ってくれるのでなんとか、このアルバイトをやめないでいる。
その手芸教室であの「詩人」の人と私は知り合ったのだった。
あの人は「友達の子供さんへ『カントリードール』を作ってあげたい」とここへやって来た。
あの人は優しくてフレンドリーな人だったので私と、あの人はすぐに、世間話をする間柄となった。
それに、あの人は器用な人だった。
あの人は三体、カントリードールを作った。
それを友達の子供さんへプレゼントしたらすごく喜んでもらえたと、あの人はうれしそうに言っていた。
それからも、たまにその人はここへやって来てポーチだとかブックカバーなんかを作っている。
1人で家に閉じ籠って手芸をするより、ここへ来て手芸をする方がずっと心も開放的になって楽しいとのことだ。
まぁ、それはその人だけではなく、ここへ来る人が、みんなそうなのだと思う。
そう思うと、この手芸教室も人の役に立っているのだなって思う。
あの人が「手芸教室が終わってから、一緒にお茶なんて、どうですか?」と私に声を掛けてきた。
「ええ、いいですよ」と私もそれを断る理由なんてなかったから承諾した。
あの人と私は教室が終わってから、そこからすぐ近くにある、昭和な感じの喫茶店へ行った。
私はその人と紅茶を飲みながら、にこやかに世間話をしていた。
ここの喫茶店のマスターなんかが、たぶん、モディリアーニが好きなのだろ。店内にはモディリアーニの絵がたくさん飾られていた。
私はその喫茶店へ入ったのは初めてなので、あの人と話をしながら、珍しそうにその店内の様子を、さりげなく眺めていた。
なんか、落ち着いていいお店だな、と思っていた。
それから、あの人は自分の詩が載っているという小冊子を私に見せてくれた。
私はその詩を読んで「すごいですね。こんな表現ができるなんて、いい事だと思います」とその感想をあの人に言った。
「詩などに、興味はありませんか?」
「……まったくない、ってことではないのですが。自分では描きませんが、人が描いたのは『どんなことが描いてあるのだろう?』って気になる方ですね」
「そうですか。だったら気になる詩人なんて、おられますか?」
「そうですね……昔、子どもの頃に宮沢賢治の詩を少し読んだことがあります。……物語風の詩だったら少しは分かったのですが、子どもの私にとっては難しかったですね」
「大人となってから読まれました?」
「いいえ、読んでないです」
「読まれたらいいと思いますよ」
「……そうですか、わかりました、読んでみます」
それからあの人は楽しそうに「詩」の話をしてくれた。私にとっては珍しい話だったので、私は興味深くその話を聞いていた。
小学生だった頃、同じクラスで仲良くしていた男の子が宮沢賢治が好きで宮沢賢治の話ばかりしていた。
だから私も宮沢賢治の物語を読むようになった。
けっこう難しかったけど、キラキラとしたきれいな世界の物語だな、ってことは私にでも理解できた。
でも物語風の詩は少しは分かったけれど、分からない詩もあってそれらは、さっぱりで理解できなかった。
やっぱり、小学生の私には難しいことだったのだな、って思う。
そのことを、あの男の子に言うとその子も「ぼくも詩のことまで分からない」と言っていた。
そして「大人になったら分かるようになると思う」と言った。
「子どもの頃、仲良くしていた子からも、宮沢賢治の詩は大人になってから読んだらいいってことを言われました」
「あら、そうなの」
「でも、今読んでも分かるかどうか……自信がありませんね」
「だったら詩ではない、物語を読まれたらいいと思うわ」
「そうですね、物語だったら分かると思います。読んでみたら、また子どもの頃とは違う感想になりそうですね」
それから、あの人は自分が描いた詩が小冊子に載るたび、それをコピーしたものを手紙に同封して私のもとに送ってくるようになった。
そして、だんだんと私はあの人の「悲しみ」を知るようになっていった。
じわじわと、少しずつ、その悲しみが分かってきた。それは、時間がかかることだった。
あの人はその「悲しみ」を私に知って欲しかったのだろう。
誰かと共有してその「悲しみ」を少しでも軽いものにしたかったのだろう、と思う。
***** ***** ***** *****
「あんまりや」
「ほんま、これはひどい。悪質や、って言うかほとんどそれって『犯罪』なんかとちがうか」
私はサツキ宛に送られて来た中学校の「同窓会の案内状」を見て、凄く腹が立った。
それは、もう何年も前の古い年賀状に書かれていた。
おまけに裏側は、上下逆さにして書かれていた。
これはひどい。悪質で異常だ。
「あいつら、まだサツキをいじめとる、あいつら、最悪や!サツキ、こんな同窓会なんかに絶対、行ったらあかんで」
「うん、絶対に行けへん」
「この幹事の男子、確か今、小学校の先生をしとるな……こんなやつが学校の先生か、ふざけとる……ほんま、学校なんか信じられへんわ、それは変われへん、私らが子どもの頃から……ほんま、ひどすぎるわ、こんなやつら大人になっても全然、変わってへん、悪質なワルガキのままや!」
でも、もちろん、学校の先生はみんながみんなそうではないってことも分かっている。
真面目に困っている生徒のために尽くしている先生も沢山おられるってことも分かっている。
ああ、学校の先生がみんなそのような先生だったらどれだけ、いいことだろう……。
サツキは中学生時代はずっといじめられていた。
それはひどいものだった。
わざとにサツキを避けたり、無視をしたり、わざとに聞こえるように悪口を言ったり、サツキの持ち物を隠したり、捨ててしまったり……。
私がサツキをいじめる女子の1人をつかまえて「何で、サツキをいじめるんや!」とどやしたことがある。
するとその女子はへらへらと笑いながら「だって、あの子、鞄は肩にかけて持つし、靴下は長いのはいとるやんか」と言った。
「はぁ?鞄の持ち方の校則なんかあるか?靴下の長さはこうやという校則なんかあるか?そんな校則なんかないわ!何で、そんなのがいじめる理由と何でなるねん!」と私がムキになってそうわめいた。
「だって、みんなその事で笑っとるやん。何も私だけちゃうわ、みんなそう言うとることや」とまだその女子はへらへらと笑いながらそう言うのだった。
私はその女子をぶん殴りたいのを我慢した。
グッとこらえていた。
いじめる奴らは、まず初めにターゲットを決めて理由なんか後から付けていじめるのだ、ということがよく分かった。
その女子はそれから東京の有名な私立大学の教育学部へ進学していった、という話を耳に挟んだ。
そんな奴らばかりだ。何でそんな奴らが「教育学部」やねん!ほんま、アホらしくなる。
それから、何年もしてからその学校の先生となった女子と町でばったりとあったことがあった。
私は「ゲッ、あいつや!」と思って知らん顔をした。だが、あいつは違った「うわぁ、久しぶりやなあ、私のこと覚えとる?引っ越しせえへんやったん?」と何食わぬ顔で、馴れ馴れしく、まるで昔からの仲の良かった友達かのように、私にそう話かけて来たのだった。
もちろん、私はそいつを無視してその場から離れた。
するとだ、あいつは何を思ったのか、わざとに、ふざけてだろうか去って行く私に向かって「お気をつけて」と言ったのだ。
何に気をつけたらええねん!?アホかっ!と思った。
何なんだ、「引っ越しせえへんやったん?」って。私に引っ越ししていて欲しかったのか?ここから、いないようになって欲しかったのか?
なんか、感覚も言うことも「おかしい」と思う。
「あいつ、狂っとる」と思った。
同時に「ほんま、いじめる方は何とも思っていない」ということがよく分かった。
それから「あいつは東京の大学へ行って、さらにおかしくなって帰って来た」と思った。
サツキはそいつらにいじめられて今でもその「トラウマ」に苦しんでいる。
なかなか立ち直れないでいる。
自分に自信が持てないでいる。
それで「私なんか、どうでもいいんや」と自分の髪を自分でめちゃくちゃに切ることを繰り返している。
そいつらはまだサツキをいじめている、そいつらにとって、まだいじめてもいい存在なのだということが「同窓会の案内状」でよく分かった。まざまざと分かった。
「サツキ、負けたらあかんで!!」
私はギュッとサツキの両手を握ってそう言った。
「うん、負けへん!」
サツキも強く私の両手を握り返してそう言った。
負けたらあかん!
そんな奴らに負けたらあかん!
サツキはサツキの人生を軽やかに、朗らかに歩んでいかなあかん!
その権利がサツキにはあるのだから!
***** ***** ***** *****
「確かに、そんな時代だったな……」と私はつぶやいた。
昔、バブルの時代に流行っていた小説を読んでそう思った。
やかましく、賑やかすぎた時代。
ギラギラしていた時代。
自己主張を強くする女性がもてはやされていた時代。
そんな女性が肩で風を切って我が物顔でメインストリートを堂々と歩いていた。
その小説の主人公の若い女性もそんな女性だ。
その小説には、やたらと高級なブランド物の洋服やら、化粧品やらが出てきて登場人物達を飾りたてていたし、やたらとおしゃれなカタカナの名前の甘いデザートが出てきたし、やたらとおしゃれなカタカナの名前のカクテルを主人公達が気取って呑んだりしていた。(『やたら』とを何度も書いてしまった!)
悪くいえば「お金さえあれば、あとは好き勝手に、わがままにやっていい」という風潮がその小説からもにじみ出ている。(さらに、悪くいえば『成金な人』が好き放題にしていた時代だったと言える)
わがままなブランド好きな人が幅を利かせていた時代だった。
だけど「今は私の時代!」という人々以外の人々にとっては「しんどい時代」だったと思う。
実際、くたびれ果てていた人々もいたと思う。
何も「浮かれていた人々」だけではなかったと思う。
冷めた目で見ていた人々もいたはずだ。
そんなバブルの時代の悪い部分の影響を受けた子ども達が「いじめ」をしていたのではないかと思ったりする。
あのいじめをしていた子ども達は、やたらと、わがままでプライドが高く、やたらと自分勝手な自己主張をしていた。
人に対しての気遣いなんてまったくなかった。
ひたすら自分の気にいらない子ども達を大した理由もなくいじめていた。
「いじめられる方が悪い」
「いじめられる方にも責任がある」
という自分達の都合のよい言い訳をして、それを信じて「いじめ」をしていた。
まったくひどいことだと思う。
「犯罪」だよ、それって。
「被害者」がいるのだから、それはれきっとした「犯罪」だよ。
そんな感覚のまま、大人になってまだ「いじめ」をしているんだ。
あいつ達には「悪かった」って反省をすることはないだろう。
今でも「いじめられる方が悪い」という考えのままなのだ。
サツキに届いた「同窓会の案内状」でそのことがよく分かった。
あいつらは、まったく変わっていない。
そして、あの「詩人」の人もバブルの時代に、恋人だった男性から、その時代らしい棄てられ方で棄てられていたのだった。
それは、まるでその時代のテレビドラマかのようなことだった。
あの人の元にやって来たのは恋人だった男性ではなく、その男性の父親の会社の秘書だった。
その秘書は事務的に「別れていただきます」ということをあの人に伝えて、おそらく札束が入った白い封筒をあの人に渡そうとした。
あの人はそれを受け取らずその場から去った。
そんなことって、本当にあるんだ……。
私は、私にとっては、そのようなことはまったく私の世界とは違いすぎることなので、その話をあの人からの手紙で知った時は、ただただ、びっくりしていただけだった。
あっけにとらわれたというか……。
今でも思うよ、「そんなことって、本当にあるんだ……」と。
まったく酷い棄てられ方だ。
繊細なあの人が今でも悲しんでいるはずだ。
一体、バブルの時代って、何だったのだろう、と思う。
酷いことをしてしまう人が多くなっていた時代だったのだろうか……?
でも、そんな時代があったからこそ、いろんなことが学べたのではないかな……と思う。
当たり前の、普通で平凡で素朴なことや物の素晴らしさがようやく分かったのではないかな、と思う。
***** ***** ***** *****
いつまでそうしてるつもりだ
早く起きてゆきなさい
お前をみんなが待っている Hey Hey!
苦しい時代を共に乗り越えた
走ってゆけ 負けたっていいから
ただ「真っすぐ」に その「真っすぐ」なハートで
涙がでるのは 愛があるから
あと3つ、2つ、1つとカウントダウン!
「0」になっても… 走ってゆけ
安全地帯の「結界」、たまに聴きたくなる。
それにしても「時代」は変わったと思う。
私が子どもの頃とはまったく違った時代となった。
私達は乗り越えて来たんだ。
子どもだった時代を。
悲しかった時代を。
これからも乗り越えて行くんだ。
子どもだった頃の楽しい思い出は大切な宝物にして、大事にしながら。
子どもだった頃、サツキと仲の良かった友達達と、一緒に放課後の小学校の音楽室で、オルガンを弾きながら、大きな声で「ポランの広場」を歌ったことは、大切な思い出だ。
私は忘れない、大切な思い出は。
だって、それらは私にとって生きていく希望の「灯り」となっているから。
その「灯り」を心に灯して、いろんなことを乗り越えて生きていこうと思う。
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