プロセスと合理性のあいだ
NHKで放送されている大奥ウォッチャーである。
男子のみが罹る病気により
男女の役割を取り違える形になったら
幕府はどの様に運営されていただろう?という
SF時代フィクションながら
性差、立場の違いによる心の機微や
時代考証も緻密に話が練られている。
漫画では描いてあっても
放送する尺に合わせ脚本で省かれてたとしても
なおそこに描かれる行間の儚さは
脚本に合わせたであろうキャスティングで補完され
ベストが過ぎるだろう?と神々しく映る。
その位ベストデザインだと感じたドラマ。
仲里依紗演じる綱吉の叫びは、凄かったな。
はてさてその大奥 医療編で
物語のキーマンとなった田沼氏は
先見の目で対病気、対露の案を出した。
交流するプロセスの事実を観ていく事で
有意義に事を運ぼうと希望を持つ者がいるのか、
結果として誰がどの様に動いたかを示す様に
見る視点が用意されている…のも
デザインだよね。
鈴木杏演じる平賀源内、好きだー。
源内が田沼に惚れている描写は
もはやジェンダーや性嗜好という言葉すら
必要ないのではなかろうか。
原作者は「人と人」を描くのが上手だ、と
その温もりは『昨日、なに食べた?』でも感じる。
田沼氏の押した対露原案は観察する人により
どの様に暮らしどの様にあろうとするのか
それを重視するように映っていたのだろう。
敵対する勢力は知らない事を恥と無意識に感じ
知ろうとしないまま、精神的にも攘夷論的方法の
パワーバランスを重視する事が
効率的と考えていたのかもしれない。
佐賀出身で蝦夷
(この語は区別という明文化のもとにある。
知らないからこそ存在した差別用語)に
近しく活動していた人はどう感じていたのか?
調べるとゴールデンカムイの発端の発端に近く、
歴史を紐解いていくなかで
北海道と沖縄、語尾に「〜さ」とつくのは
どの様な共通点による物なのか凄く気になる。
話は戻るが
大奥も第3シーズン幕末編へ突入し
仲間由紀恵演じる一橋治済からの
欲をどう通すかというサイコな系譜は
高嶋政伸演じる徳川家慶へ。
近親相姦という性暴力が可視化され胸糞案件だとなるのは
演者の為せる技だろう。怪演。
(家慶の所業に嫉妬した御台も家定に毒を盛るし、いろいろキツい)
将軍となり、薩摩から御台を迎え
健康を取り戻していく微笑ましい家定、
見識を持つ者を探し奔走する阿部正弘を眺めつつ
「あー、幕末近いじゃんドラマが終わるー」と
原作を読んだ私としては既に寂しいのだけど
第1シーズンで展開された
吉宗のキャスティングと今際の際に見たとする
未来としての映像演出が
時代というニュアンスを持ち
繋がっていくのだなあ、と脚本にため息がでる。