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絵を描くこと、絵をみること

大前提として私は絵が描けません。
正確には”描く”ことはできても、それは”絵”になっていないということです。

学校でいただいた先生方の講評をうけ、昨年から大学の課題とはまた別に”描く”量が増えました。1日数十枚と描く方からしたら微々たる量ですが、気まぐれに描くのではなく自分に義務づけることにしました。
あいもかわらず下手なままだし、悪い変化に気づくこともあれば、正直今日は疲れて描きたくないなぁ‥という日もあります。
それでも描くように心がけて日々描いています。

悪い変化は柔らかな鉛筆(2B〜)で描くことが怖くなったこと。
こちらについてはまだ改めて記事にしようと思います。

良い変化は、絵画鑑賞における意識の変化です。

「”絵”を”描く”には鑑賞力が絶対必須であること」

まず、現実的に私がとった科目の課題には鑑賞と鑑賞力が必要となる課題がいくつかあります。

1枚の絵画があって、これまでは表面的な鑑賞をしていました。
好きだな、嫌いだな、と
そこから単純に感情を語源化してきただけであって本当にただの感想でしかなかったんですよね。したがって科目で鑑賞力を習得する課題も多くあり、大学入った当初はいざ課題にとりかかると400文字程度のとりとめようのないものしか書けませんでした。

しかし”鑑賞をする”と意識するようになると一枚の絵画を前にして

なぜ?どうして?と疑問や
作品そのものだけではなく画家自身のことや時代背景、心理的状況など気づくことが多くなり考察するようになりました。

実際に鑑賞しなくてはわからないこともあるわけです。
キャンバスだったら釘の打ち方がみだれているとか、なんの素材の釘をつかっているのか等。もちろんキャンバス以外の支持体であれば、そこからまた違う考察ができる。
図録をみてもキャンバスのサイドを掲載してくれるものはあまり見かけませんし
絵そのものだけではなく見たいことは沢山です。
釘の打ち方でわかる画家の几帳面さとか、想像すると面白いです。
(もちろん画家本人以外の誰かが張ったものを使った絵や額装で見えない絵もありますが)

作曲家の楽譜を見ている感じです。
モーツァルトの楽譜には音の迷いがあまりないけど微妙に雑、ベトなんか乱雑すぎる、ショパンは繊細すぎるし。

だから鑑賞することに執着するようになりました。
一生のうちに鑑賞できる作品は限られているかと思いますが、それでも私はたくさんのたくさんの絵画を鑑賞していきたいのです。

先生方の講評は、いや、本当、すごい鑑賞力‥しかもこんな下手な絵をちゃんと分析してる‥、と驚愕します。そして嬉しくもなります。
いわれてはじめて「うわ‥ほんとだ‥なんで私はこんな描き方をしたんだろ?謎‥」となることも。

絵に正解はないとは思います。でも基本あってのボーダーレスであると私は思うので、やはり今日も鑑賞から得たことを生かせるように意識しながら描きます。

下手だけど
せめて基本を学び、基本に近づけるように。







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