果たして「知る」ことは本当に幸せか?
最後どこに行きつくかなんてわかんないけど、
今日は書きたい事を書きたいだけ書いてみます。
今、私は体調が悪くて何をしてても冷や汗か脂汗かわかんない汗が出そうなくらい(出てへんのかい)痛みや倦怠感と闘っている。
座っている事すらままならず
「あれやんなきゃ、これもやんなきゃ、あの人とこの話しなきゃ、この資料作らなきゃ、子供のあれしてあげなきゃ、掃除しなきゃ、銀行行かなきゃ…等々」
頭の中をグルグルそれはそれは膨大な量の情報が張り巡らされている。
3年前までは、看護師をしながら、ママさんバレーをして、子育てをして、ランチをして...
当時は当時で忙しいながらも今と比べれば情報量や行動量は10分の1以下。
じゃあ今の方が不幸かと聞かれればもちろんNO。
だけど確実に忙しくなったし、義務ではなく「自由」にはなったけど、思い通りにいかなかったり、成長痛の様な苦しいと感じることも多くなった。
「井の中の蛙大海を知らず」
とか○○を美味しいと思わないなんて人生の半分を損してるよとか言う人がいるけど、
果たして「知る」ことは幸せだろうか?
SNSが発達し、嫌でも情報が入ってくる。
可愛い人、お金持ちそうな人、幸せそうに笑ってる人、可愛い動物、赤ちゃん、高級車に美味しそうなもの、楽しそうな国、素敵な家、綺麗な服...
挙げればキリがない。
昔、「大きな会社を経営し、数百億稼ぐ社長や偉人と言われる人ほど毎日自殺したいと思っている。」という話を聞いたことがある。
そう考えると、知ることは苦しみの第一歩かもしれない。
下手すりゃ鏡で自分の顔を知る事すら不幸かもしれない。
ここ数日、1日の中で
「いっそいなくなってしまえばこんなに苦しくないのかもしれない」と思う瞬間がある。
(あ、言葉にすると病んでるみたいやけど、何て言うかな~インフルエンザになって高熱にうなされてる時みたいな絶望感ぐらいの感じね。トンネル抜けるのはわかってるやつ。)
でもそれっていわゆる「幸せな瞬間」と比較しているからで、そういう表現を誰かがしているのを真似して言ってみてるのかもしれない。(ほら、だんだん訳が分からなくなってきた笑)
話が飛ぶけど「安楽死問題」もそんな簡単に死んじゃったらまだまだこの先たくさんの幸せが待っているだろうに...っていう何の根拠もないちょっと何かを乗り越えたことのある大人たちのエゴだし、きっとその大人は同じ苦しみを経験し得ないから平行線のまま。
結局、生きるも死ぬも幸も不幸も自分軸でものごとを決断できるようにならなければ、この先情報という不幸の沼にハマっていく。
正しさではなく、人との比較でもなく、自分の軸を持てるよう、今の自分に必要なもの、大切な人と過ごすのがいいんじゃないかな。
自分で体験したこと、自分が味わったこと、自分で出した答えしか語れない。
お金が1000万あろうと、10万しかなかろうとそれでいいんだって自分のモノサシで胸を張れるように生きる為に、色んな表現方法を知り、色んな生き方を知り、色んな愛を知るんだと思う。
昔は辞書を引いたり、飛行機も電車もなかったけどその時代時代で幸せに生きた人達がいた。
時間軸も幸せの形も変化・多様化してるからこそ、自分とは何者なのか、何に向かって進むのかが少しわかるとおもしろいのかも。
ま、それもすぐ変化するんだけどね。
そんな話をするかどうかわかんないけど、何かを探してる人や、見つけた人等、色んな人が集まる会が6/20夜、大阪で開催される。
ヒントになるのか、知ってしまって苦しくなるのかはわからない(笑)
でも、会ってみたい人がいるなら後回しにせずすぐ会いに行くのが私流。
どうせ生きるなら、自分らしさぐらい見つけて生きたいから。
とりとめのない文ですみません。
満足したので寝ます(笑)
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