自分の人生で勝負する生き方。ありさが自分を丸ごと愛せるようになるまで。(幼少期編)
私には2人の娘がいる。
中学1年と小学校2年。
私は第1ページで書いたように、超過保護で育った。
超過保護なんだけど、私に何も求めず、型にはめず
これでもかという程の無償の愛を注いでくれた。
こう書いているだけで父と母の顔が浮かんで泣きそうになる。
母だけでなく、父も偉大だった。
何も口出しせず、母のやりたいように子育ても
見守っていたように思えるし、
二人とも早くに親を亡くしていたのでその辺の連携が絶妙だった。
そんなノンストレスな子供時代を生きた私は、超自由に子育てをしている。
子供は何にも縛ることなく自由、その代わり母の私も自由。
「こんなに頑張ってるんだからあなたも頑張りなさい」と
怒りをぶつけるのは違うと思うから。
いくら自分の子供だって違う人格なわけで、私の一部ではない。
子供が可愛いからと、私が宿題をしてあげていては
一人の人間として成長していけない。
当たり前なんだけど、いざ本番になると必要以上に手を差し伸べてしまう。
自分のエゴで判断してしまう人が多く、
自分を生きられていない人に多い。
まぁ総体的に暇なんだよね。
そんな私だけど、小さい頃、どんな思いで、どんな環境で育ったのか。
誰よりも記憶力の悪い私だけど記憶を辿ってみようと思う。
私は2階建てのアパートに住んでいてお隣のゆうくんというお兄ちゃんに
よく遊んでもらっていたらしい。
三輪車をコキコキ漕ぐ3歳位の私とキャラメルコーンを持ったお兄ちゃんが楽しそうに遊んでいるビデオが残っている。
私の記憶ではなくエピソードベースになるけど、母は私の身体を強くしたくて当時乾布摩擦と裸足の教育を取り入れていた幼稚園に入園させようと決心するも、
寒がる私を校門から見て涙が止まらず、耐えられなくなり(母が笑)
その日に退園したという作り話の様な本当の話もある。
おかげで(?)泣き虫に育った私は、卒園式で初めから終わりまでずっと泣いていたそう。(聞いただけでも手がかかる子供…)
母は超おしゃべりが上手だったので、私は殆どしゃべらなくても伝わる生活が続き、私の言語は日々退化した。(笑)
病院に行っても「おなかが痛いんです」と母が言う(笑)
小学校に入学すると、夏はクーラーでキンキンに冷えたアトラクションの様な部屋を用意して待っていてくれたし、冬はストーブで洋服を温めてから
着せてくれた。
あまり記憶にないけど、それを友達に話してちょっといじめられた気もする。
とにかく、何の試練もなく、快適・安心・安全しかない私の人生。
マジ戦闘能力0だった。
与えられるものだけが全てだった私は、家ではTVドラマしか見てなかったから漫画やアニメの存在を知ったのも小6だし、今思うと探求心すらなかった。
友達ともあまり遊ばなかったから、放課後は母が運転する車に乗って
おけいこごとに励む日々。
お習字・ピアノ・新体操・英語・家庭教師・スイミング・そろばん…
そういえば母はよく「あーちゃんの可能性をつぶしたくない」
と言ってたなぁ。
「あーちゃんは可愛いし、優しいし、やればできる子やし(やってなかったけど笑)かしこちゃんやしね~」と毎晩身体をトントンしながら子守唄付きで寝かしつけてくれてた。
高度経済成長期の途中だったしそういう時代だったのか?
いや、絶対関係ねーな。
お休みの日には家族で必ずお洋服のショッピングに外食、カラオケ…
言うことない生活だったな。完全なめてた(笑)
あ、そんな超受け身の私でも、ちゃんと恋はしてた。
本能として備わっててよかった。
4年生ぐらいからずっとH君が好きだったなぁ。
同じシャーペンを使ったり、手紙の交換をしたり、
自転車でコンビニによってフランクフルトを食べたり…
それくらいだったけど、母にそういう話をしては
一緒にどうやってH君と遊ぶか作戦会議をしたりしてた笑
とても穏やかな日々、パパもママも大好きだった。
父は自営業をしていたのできっと立ち上げの頃なんかは大変だったと
思う。何も言わない父だったけど、気の強い母だったから
夜に一方的に喧嘩をふっかけている声が何度も聞こえてきてた。
私にとって絶対の2人がいなくなってしまうんじゃないかと
不安になって布団の中で泣きじゃくった記憶がある。
とても守られていたけど、どこか不安だった。
それは何も乗り越えていない自分への不安でもあり、
父と母は永遠に存在するわけじゃないとどこかで感じていたからかな。
中学になり、バレーボール部で超超超厳しい練習に日々追われる。
この頃から母の体調が悪くなり始め、父の会社の経営状況も危うくなってきたんじゃないかと思われる。
私は相変わらずのほほんと過ごしていたけれど。
3歳の頃から夢は「看護師さん」それは頑なに決めていた。
中3の頃、毎年看護の日に開催される一日看護体験というイベントに
パパと行き、初めて白衣を着て病院を闊歩した日は鮮明に覚えている。
そういえば、私は父のことが大好きだった。
でも父の事は何も知らなかった。
いつも笑っているだけで、何も言わないから。
母と私の思うように、したいように見守ってくれる父。
その父が、看護の日の感想文を書かされ、それを読んだときに
ふあっとだけ父の感情に触れた気がした。
「右も左もわからない私は、金魚のフンのように娘の後をついて歩いていただけだが、成長した娘の姿に少しじーんとした。」
嬉しかった。
感情表現しない人だから、そんなことを思ってくれていたんだと
感動したのを覚えている。
こうして過去を遡ることは、私にとってとても苦しい作業です。
乗り越える力が弱いのか、向き合うのがとても苦手。
忘れたい記憶が山ほどあるし、思い出したくない感情もたくさんある。
だから過去に戻りたいなんて一瞬たりとも思ったことがないし、
今が一番幸せで、今が一番居心地がいい。
さあて、次のページは少しずつdeepな過去に入っていくよ。
耐えられるのか?わたし(笑)
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