見出し画像

2024年 言語精算22(下)

はじめに

 本記事は、上記リンクの続きとなっています。ならびに、これらは(上)(中)(下)の3つで1つに構成されているもので、適当にご覧いただきたい。概要は(上)に記載しました。
 下にスクロールすればするほど語り口が適当になっていきますので、よろしくお願いいたします。

自分と社会・世界をながめてみよう

本を読むこと

 作品を受け取ることと、それを見た者が評価すること・また感じ取った迫力そのものは、異なった層で取り沙汰していいのでは。作者の創造それ自体と、それを評価・批判してもらいたい欲求(があるかはさておき)とは別に生み出されるものだから、もし「この作品の○○の部分に感動した!××という含意と解釈し、それがとても心に響いた!」には2つの欲求が内包されている。だから、そういった意見に対して「その解釈、全く的を射てないですよ。本来伝えられるべき内容は・・・」という指摘は、むしろそれこそが的を射ていない。
 Instagramにはストーリーという機能があるが、これも似たようなことが言えるのではないだろうか。例えば「〇〇に来た!」という文字と共に旅行先と思しき場所の写真や、整然と撮影され、色彩の調整が細やかになされたモノや景色、あるいは思考の筋道が見えない、なんでもないブレブレの写真。これらは大抵「つまらないストーリー」として認識しがち(かどうかはわからないが、少なくとも頻繁に意識しないような関係性であればこのように認識するのではないか)であるが、本来それら1つ1つは、投稿者の得た、情動を含む迫力を表しているものであって、「個」が個別に評価しうるものだと考える(商業戦略的なものは別の問題になってくるが)。そして、先の読書など作品に触れることというのは、その情(モード)を作為あるいは無作為を通して得ることではないか。自分の中に「確信たる情動」を得られるならばむしろ、なにも作品に固執する必要もない。普遍的日常にそれを見出せるならば事足りるが、しかしそれには限界があって、今の自分の生き方では到達不能な世界が、比喩にしろそうでないにしろあるのだから、触れた作品という、いわばソフトウェア的役割の対象をどう見るか、なのであろう。
(引きのあるタイトルに対して中身がつまらなすぎる。)

自他のある場

 自分がいなくていい集合の予定は嫌だ。その会合に本当に欲しいわけではないが、ないよりはいいと思って呼んでそうな感じ。「これはなんの時間なんだ」が占める。なんのための招集で、そしてこの空間を経てなにを得るものがあるのかと全く気が削がれる。しかしそれは嫌だが、かといって行かないわけではない。行くし、楽しめもする。これがなんとなく腑に落ちなくて、「行くのが嫌なだけで行ったら行ったで楽しいんでしょ」とよく言うが、感覚的にはそういうものではない気がする。仮説としては、レイヤーが一層違うからなのではないか。階級差や、コミュニティによるものといったように、身分や立ち位置が異なる状況ではそうなる。自分は、社会的な関係は深く突っ込む気がないし、しっかりとした交友も少ないし特段重視しない。それ故に自分ではしっくり来てない立場で、周囲は楽しそうにしているから、なんとなく楽しさを複写していっているだけなのかもしれない。一層下(上でも)に位置するから、統合すると同じシート内にあっても重なってはいない。不特定多数が個人を注視するような場で見ている、かつ見られているものは、「その実態を伴わない、統合された(かのように見える)人物像」であって、社会ー個人(加えて対的)なレベルのどのグラデーションでも、むしろ自己の「他者観」が複雑であればあるほど、いっそう疎外感を得やすくなると思う。
 そういった面で、社会に対する目的と手段と、「意味や役割」で存在しているかのような自己が不安になっているのは確か。どうしたってこの自己が早々にひっくり返るわけではないから、それに気付いたとしても淡々と求められる役割をある種の歓待として振る舞っていくと思う。他者と接近していると思ったら、実は自分の枠の中でどうにか満足させているだけで、他の枠に入り込もうとしていないということになる。

呑気

 抽象概念Aに対する「真摯さ」について、真摯さのグラデーションを展開しつつ、それを言及している者自体「真摯」であることが何を意味するかまでは把握しておらず、あるのは自己実現のための素直な欲求である。(そこで「あそび」と称されるものであっても、真摯でないということには断じてならない。)
 余談だが私は人と人そのものへの好みが分離している。これに対する明確な感覚をもちあわせていないが、人間という社会の要素としては漠然と、しかし着実にまとまりを見せている共同文化を見るのは、俯瞰する高度な度合いも含めて好きであるが、それが個人間のレベルに置かれた時に違和が生まれる。要は粗、前項で述べたことではあるのだが、各個人の中で生じる「自己ー他己」の関係性は、実際には頭に「すべて根拠なく、しかし感覚としては確実な」が接続しており、表面上の相互理解によって関係性が成立している節があり、それが良いし、悪い。個人的には、「抽象的に存在する欲望それ自体」が好きということで折り合いをつけている。
 真摯さはだから、本来大きな根幹から派生した微細な自分独自の欲求を是として、それが広く普及されていると思い込まれているきらいがある。その好みが細分化することはごく自然で結構なことだが、その状態を少しでも理解できていないと、自己ばかりに浸透する選択方法に慣れ(剰えそれは他己をも自己から生まれるものとして疑わないし、それに気づいてすらいない)、本来の広がりを見せない幻想の中で過ごすこととなる。同様のことを言い方を変えて以下に記す。
 予想と希望って大元は同じじゃない?幻想じゃんそれって。対人における幻想は(こういう人なんだなあ)って全く根拠のない観察者の勝手な広がりじゃん。それで、その対象のいう「私はこういう人です」も「自分はこういう人の理想像を持っています」というケースも屡々あるので、見るー見られる側のどちらにも根拠はないわけで。ここで一意にその人を特定するのが、身体的な特徴(とそれから得られる情動)になる。そこでは、直感はあくまで骨組で、意味による肉付けをすることが必要で、さらにはそれに気づくことが重要。つるっとしているものに意味を見出した。そこにとげとげがあったとして、それを引っこ抜くのか、拒むのか。それともそれごとを「意味」として捉え直すのか。その分岐がすなわち、幻想を愛と捉えるか否かの差だと思う。
 (また、身体に次いで趣味が分析材料となるが、しかしこれも、趣味自体を好きになっているのではなく、趣味から得られる感情によるものであるため、純粋なものではない。)
 そして、これらを踏まえた人物へ向かう視点では、どうぞご勝手になさっていてくださいと、なんとも偏屈な構え方になってしまう・・・。

犠牲になる流行

 流行りが発掘され普及すると、そこに元からいた者が去って陳腐化し、廃れることが秒読みになることはよくあることであるが、逆を返すとその「侵入者」とも呼ぶべき存在が世間や社会に追いつこうとして同化を図るわけだから、しかしそれ全体が閉じているからこそ生まれるのであって、個が、公開された基準に追いつこうとするのではなく、それを踏まえて(この意見や改造された基準を公開するのではなく)作り直されると開くのかな?

 上の文は寝る前になんとなく書いたものであったが、いや、それは実に簡単な話であって、流行を手段とするか目的とするかというだけのことだった。
 流行そのものの流行たる要素を取り出して生みなおす、大元のプロットは不変なものという共通認識の中いかに個人を出せるか、という流行そのものを拡大させる反面、それを、自己の社会に対する横並びの欲求もしくは単に承認欲求を満たしたいがために、一見馴染みのあるように見える「イメージとしての言語」で潜ませるのだ。ここにコンテンツの廃れというものは微塵も考慮しておらず、というよりむしろ身体を乗っ取ったときのように対象を捨てるくらいの扱いである。加えて、当人にはその気がなく、実際は前者のような「おもしろ〜い、自分もみんなみたいに参加しよー。」からその振る舞いをしていると思われる。
これはインターネットに言っている。

或る通勤

 いつもの通勤ラッシュ。それは無であることがなにより正義だと思う。怒りや焦りをクラウド空間で発露させることに何の意味があるのか。ここで発散したとして、それはまだ「通勤」の範疇である、つまりはまだ1日は開始されていない地点であるため、ここで無駄に消費する意味はないのだ、それを大勢は知っている。

 だいぶ大きなキャリーバッグを携えた男性がいた。「変。」そう思った。この人には通勤ラッシュ時にキャリーバッグを持ってこの駅に来なければならない相当の理由があったのだろうか。明らかに煙たがられる。(しかし今になるとそれが身にしみて仕方ないと思われる)この疑問には意味がなく、ただ違和を感じ取っただけにとどめておくのが正しい。さて、車内に乗り込むと、今日は中くらいの混み具合だ。(ちなみに強が身動きができない状態、中が片手が動かせ、足の位置も半径半歩なら動かせる状態、弱が1人分の余裕がある状態だ。)皆は必死にスマートフォンを眺めており、かくいう自分もそれに頼って音楽を聴いている。

 ふと目を遣ると、真横の男性の服がヤバい。今日は群抜きで寒い(と体感している)日にもかかわらず、めちゃくちゃ半袖だ。わんぱく小学生じゃないんだから、でもまあそんなに寒さを感じない、むしろ暑いと感じているのかなあ、と思っていたら、その男性はめっちゃ左利きだった。その男もスマホをせっせといじっている。いや、めっちゃ左利きなんかい。激寒左利き半袖かい。車内の広告はきかんしゃトーマスのSDGsだったし、いつも乗降が混雑する乗換駅では地蔵が2体いた。なんだか頭を使う通勤だった。

散の途につく('24)

言語

「検証してみた」「解説」とかって、字面による信頼度が割合として多分な影響を持っている気がする。蓋開けてみたら適当な解説だった、としてもそれが是として認識されてしまうから。

ガム

ガムを噛みまくって訪れる「ゴム」というマテリアル感。

休暇

この土日、面白いぐらい二分されてた。片方はずっと行動してて時間溶けたし、もう片方はなんもしてなくて溶けた。自分って予定とかやることを無理にでも作ることを前提として生きたほうがすごい良いのかも。本とかも忙しいときに読みたいし。なんなんだ。

肌の保湿をしなかった。理由は面倒くさいから。じゃあ、これでもかといたるところにニキビが出現した。おもしろい。潤いがないってこんなに致命的なんだ、と思いつつ喉が乾燥して咳が出続けている。

風呂

風呂入ってるときって、「え!天才!?世界見えちゃった・・・」という気づきやアイデアの創造がうまくいく。ただ、風呂を出た瞬間そのすべてが何だったかわからなくなる。本当にすぐ忘れる。忘れないように反復して内容をつぶやいてなんとか記録しないとどうにもならない。たとえ覚えていたとしても「なんこれ?ふつうに当たり前なことすぎてお話にならない、何のための何の時間だったんだ、タコ」となることが多々ある。なんでなんだろう。隔絶された空間において、自分が今存在していることに対しての根本的な問いが改めて樹立しているのか、その天啓に似たなにかは、閉鎖空間であればあるほど機能するものなんじゃないか。違うよ。

日記

納税、のち、ヘラクレスメス のべつ考える日々を読んだ。日記ってコラム的な記述とエッセイ的な記述があるんだって。たしかに。自分ってどっち寄りなんだろうな。わかんないけど、気づいたのは、日記として何か物事を書き留めるにはあまりに思考を介して行わなければならないものとして認識している気がする。一般の記述として、「今日は○○があった、○○だった。そういえば○○は○○なんだろうか、私は○○だと思う。」になるのかな、ただ自分としては、物事の筋道を構成してまとまりをつけたい(ファクトに基づく根拠がないにしろ)と思うので、なかなか気軽にできるものではないのかもしれない。ジャーナルを公開してみるのもアリかも。(しない)

世界遺産検定

3級受かった。ウケる。初めてCBTで受けたけど、あんなにぬるい感じの会場なんだ。「検定」らしさが無かったな。効果測定まんま。検定を受けた理由は、単に暇だったからだし、「転職に有利に働くというのは別に気にしないまでも、何らか希望的な、自分にとってのウェポンとして所持することに意味があるのかもしれない(優越を得られることがあるのかもしれない)」と考えているから。検定を趣味にするってこういうことなのかな。いわばゲームのアチーブメントを達成するためのクエスト、みたいな。アチーブメント自体になにか実利的な意味を見出しているわけではないが、リストを埋めることへの快感がもしかしたらここには存在しているのかも。次何とろう。高校の時投げた簿記か漢検準1級がいいな。

音楽について喋る場

 自分が音楽を聴く際に歌詞を重視しないという問題、なんだか釈然としないまま、「意識して歌詞に集中しないとな」と思う一方、別にそんなにしない。まず、文字ー音楽という個別のものがあったうえで、これの中間に位置する「曲」があることが自分にとっては処理しにくいものなんじゃないか。どちらか片方を処理することは簡単なのだけれど(現に歌の詩単体、曲単体で楽しむことはできている)、これが混ざったら一挙にできなくなる?あとは、現代に生きる自分だから(かわかんないけど)、いまメジャーな楽曲の作られ方がこういう、言ったら「リズムやメロディにのせた詩」であること、現代文化が多分に含まれていることもそんなに自分を乗り気にさせない要因だと思う。

 最近、聞いたことのないアーティストの曲を聴くタームに入った。ニールヤング「オンザビーチ」、DEVO「頽廃的美学論」。これは「良いアルバムジャケットを見る」という内容動画の影響なのだが、こういう入り方は面白い。そこで思ったのは、ジャケット写真から聴きはじめる音楽は、「意外とこんな感じの曲なんだ」ということがあるように必ずしも写真のイメージとコンテンツに結びついていない。ではジャケット写真に求めているものというのは、「パッケージされた音楽」なのではなくて、ジャケット写真単体での「良さ」であるのではないか。ではさらに、「アルバムはジャケットとコンテンツのという複数の視点からイメージや良さが見出せる」と考えられる。当たり前のことではあるのだが、対象Aについて、一般に集合的概念Bと対応するものの他に、対象の外側にある個人的な利益Cがあるのではないか。いわゆる「ファッションとしての○○」で、読書を例に挙げるなら、読書(=対象A)について、それを読んで知識や理解を深める(=概念B)ことの他に、インスタにそれとない賢さをアピールするために載せたいから碌に読みもせず入手する(=利己C)、と言うことが挙げられそうだ。

 今年はKPOPやジャズが響いた年になったと思う。前まではよくわからなかったが、自分の特性上、詩を省いた音楽そのものを聴くようになってから、ジャンル問わずそれを実践。K-POPといういかにも「ウケ」を狙った・・・バカにしやがって・・・と思っていたが、アーティスト自らが作曲をするわけもなく、「今回はこの要素が加わっている」「これは今までのらしさのある曲だ」と色々テイストが異なることを知り、熱狂。ジャズに関しては、今まで達人の嗜み的なイメージだったのだが、これも特性を活かすことができて、いやむしろこのようなジャンルが自分に合っているんじゃないかと思って、というのも、ジャズやBGM、インスト、オーケストラは瞑想的「思索」に費やす割合が前者などのそれに比べて圧倒的に多い。良い。

 なんか色々いうより「良い」って言って終わらせた方がいいような気がしてきたからそうする。

おわりに

 さて、2024年の振り返りとして清算をした。
 改めて、(上)は上半期のメモ、(中)はnoteの下書きに忘れ去られていた原稿(といっていいのかわからないが)、この記事(下)は下半期のメモやつい最近のことだった。
 本当は誕生日迎える前の1/8に期限を設定したつもりだったが、なんか忙しくてそんな余裕なかった。現在はもう昨日までの自分とは違う(ということにする)けれど、今からまたこれらをかけるように過ごしていこう。
 また、おまけというか、別で記事にした方がいいと思ったので、今年に考えた詩を別で投稿することにします。
これをもってひといき。


いいなと思ったら応援しよう!