【シャニマス】『いきどまりの自由』──知性、言葉、詩について【教養・まとめ・感想】
本記事は、「アイドルマスターシャイニーカラーズ(以降シャニマス)」のまとめ・感想記事です。同作のコミュ(シナリオ)について紹介します。ネタバレをします。
記事概要
難しそうなので書きます。
また、何となくこんなこと言いたいのかと思いつつ読んだ方がずいぶん楽しいと思うので、そのための教養めいたものも書いておきます。
教養
本シナリオで中心になるやつを紹介していこうと思う。
エロティシズム
色々言われたりする。
日常で使いがちな語彙のなかで言えば「私の目、細くない?」、「贅肉でデブってて鬱」、「留年してオワリ」、「原稿落としちゃった」、「腹減ったな」、「外さむ……」、「恥ずかしい」、「私ってADHDなんだ」、「残業始めて何時間たった」、「なんやこのエラー何も分からん」、「あの人に会いたい」などの感覚が近い。
人は、「何かがおかしい」とき「こんなん要らんやんね」というとき「苦しい」ときにエロティックな状態、精神あるいは意識を持つ。
ここで、「何かがおかしい」のであれば、「おかしくない何か」が存在するということも重要だ。
この「おかしくない何か」は、実際には現実のものではないことがほとんどであり、概ね想像上の観念である。「夢」や「正解」や「イメージ」や「理想」や「理念」や「典型」や「普通」や「偏見」や「文化」や「無」や「空気感」や……もっと言えば物の名前の数だけの名前がある。
より厳密で一般的な言葉では「美」のことである。
知性
「知性」ってなんやねんっていう話をする。
まず初めに断ると、お前が賢いかどうかなんてどうでもええからな。偏差値が高くても、低くても関係ない。
通俗的なものから哲学的なものまで色んなな定義があるけど、ここでは分かりやすくするためにより狭く意味を定義しようと思う。
「知性」とは、「一部から全体を想像すること」だ。
これだけでは分かりにくいよな。
それじゃ、例えば、この画像を見てみろ。
何の画像か分かるか?
そうやな、「なかやまき◯に君」がジムにいる動画の一コマや。
……なんでわかった?
そうやな、お前の言う通り、一つには「とんでもないマッチョがいた形跡があります」という言葉を見たことがあるからやな。
他にはそう、「モザイクはかかっているけど、このスクリーンショットの構図が何となく印象に残っていた」……そうやな。
じゃあ次や。
何でき◯に君は、こんなことを言ったんかわかるか?
これを見たら国語の問題やな。
「(重量が)MAXで置かれていたから」や。
その後、なかやまさんが言うには「(シートが)まだ温かい」から「近くにとんでもないマッチョが近くにいるかもしれない」ねんて。
さて、知性について紹介しよう。
この一連の様子では、きんにさんが知性を発揮している。
分かりやすくするために仮想の白痴を用意して比べてみよう。
①重量MAXのトレーニング機材を見る
・知性あるマッチョの場合
: 重量MAXがトレーニング上の適正重量になるようなマッチョがいた
・仮想の白痴の場合
: なんかある
②その機材のシートが温かかった
・高度に発達した筋肉と知性
: つい先程まで重量MAXで機材を使用していたマッチョが座っていたらしいので、近くにそのマッチョがいる可能性がある
・仮想の白痴の場合
: なんか温かいな
「知性」ってどういうことか、何となく分かったか?
そう、一部から全体を想像することや。
俺たちは、「なかやまき〇に君」を「なかやまきんに君」と読むことができるし、『とんでもないマッチョがいた形跡があります』というセリフからなかやまきんに君を想像することができる。目の前のトレーニング機材の重量が自分には到底挙げられない設定であれば、自分には到底及びもつかないマッチョがいたことに戦慄するし、そのシートが温かければその肉体が傍にいることに興奮を覚える。もっと言えば、この口語体のいい加減な文章を書いたのは大阪に生まれて育ってきた男であることくらいは察せられるやろうな。
知性は、一部から全体を想像することなんや。
なんとなくわかったらそれでええ。
あと少し頭を回してみるなら、一部から全体を想像する知性のはたらきのためには、どうやら「既に知っている」、「経験したことがある」ということも、ある程度大切なんが分かるかもな。
そして、ここは大きく省略させていただくが、知性によって想定される「理論上、想像上、経験上のイメージ、それが取っている猥雑なものの排された完全な姿」こそは、まさしく「美」の一つの側面なんや。
……こういえば、エロティシズムと知性の関係が少しイメージできたか?
「実在性」
以下は知人によってTwitterに投稿された文章(アカウント凍結を期に現在削除済み)を、記憶を頼りに書き起こしたものである。
さて、彼は「推しのフェチを満たした」のだろうか。
君は、続きを読めば一定程度の客観性をもって判断できるかもしれない。
かつて、シャニマスのコミュにて、会計の際に端数を支払うなどの「実際にやるよね」な振る舞いや、「現実にいそう」な服装が話題になった。
そんな折そういった描写を「実在性がある」と言ったものがあり、それを然りとしたシャニマス界隈に広がっていくことになる。
「実在性」とは、一般的な表現で言えば色気のことである。
西洋の学問では fetichism などとしているが、この系統の思考において、それらの jargon が我々の日常言語の表現に優越することはないといってしまってよいので、ここでは色気とする。
エロティシズムとは何か、そして知性とは何かが分かっていると、色気についての一定程度の理解が得られるかもしれない。
さて、ここでは実在性──色気の説明を試みよう。
先ほどと同じように、色気を定義する。
色気とは、他者の欲求を、特に知性を促すものである。
以下のツイート画像をご覧いただきたい。
感想をどうぞ。
「ふっと!!」
OK、僕たちの見ているものは同じようだ。
そう、画面上せいぜい数㎠の単色のことである。
最近話題になった宝田六花の太ももの話をしよう。
私たちが知性を働かせようというとき、重要なのは知性だけでなく理性を働かせることだ。理性──とにかく分けるはたらきだ。
太ももの太さに圧倒されつつ、敢えて、かの太ももだけを観察してみよう。
太ももに注目したとき、特に目立つのはベルト周辺だろうか。ベルトは自由状態の太ももの円周よりも短いのか、激しく太ももを締め付けているように見える。ベルトに締め付けられている太ももの中腹では、皮膚の張力との緊張を保ちつつ内部の皮下脂肪が上下に押しのけられている。また、太もも円周から伸びたベルトは、猛禽を彷彿とさせる男性的なブローチを介して長軸方向に、何らの機能を思わせないままホットパンツと皮膚の間を通り、腰の奥へと消えていく。
──Downloaded≪完全に理解した≫.
それからだ。次に全身を俯瞰しよう。太ももと全体の連関を確かめるのだ。──太い。
次に他のキャラクターとも比べてみよう。──ふっとい!
そうだな、僕の太ももとも比べてみよう。──ぶっとすぎ!!!
──宝田六花の例では、魅力的な「太もも」が描かれている。
おそらく現実の世界で二足歩行をしている人間にはこの太さはあり得ない。重力に引かれ姿勢を制御しカロリーを消費し続ける私たち人間の太ももは、地球上ではこのような太さにならないだろう。作者がこのイラストを創り上げるとき、地球は太ももを中心に回転していた可能性がある。それほどまでに太ももである。我々は見るなり「ふっと!」と笑う。
このとき、特に「太ももが太い」という観念に溺れるだけに留まらないほど、このイラストに含まれる色気は豊かである。
どういうことだろうか。
例えば、その靭性や剛性などといった特徴の強調が見て取れる。それを企図した創作者の工夫が見えてくる。他にも工夫に至るまでの思考や感覚がたどった過程が感じられる。それだけではなくて、これまでに描かれたイラスト群や、仕事のオファー内容や、時宜や……が予想できる。
ここで知性を思い出そう。一部から全体を想像する機能だ。
このとき、知性は目の前のイラストを一部とみなすことでこの制作に影響した可能性のある全体を予想している。
この宝田六花のイラストにはそれができるだけのサインが、それをしようと思うだけの魅力が──私たちの目を惹く、一見して無用な、一見して違和感のある、一見して注意を促す──何かがある。
まとめよう。
宝田六花のイラストに色気があるのはなぜか。
それはまず「太ももが太い」からだ。正確には「(全体のプロポーションから一般的に想定されるよりも)太い」からだ。
また、人によっては無意識ながら太ももが柔らかそうな印象も色気に繋がっている。識閾下の知性を人は感性を呼ぶことが多いのだが、「太ももが柔らかそう」だという知性、あるいは感性がはたらくのは、正確には「(普通はないはずのベルトに押された様子から)太ももが柔かそう」に見えている。「(まかれないはずのベルトがそこにあって結果として目立つのなら、)作者は強調を試みたのだろう」と、知性を働かせることもあり得るだろう。
お分かりだろうか?
普通ではなく、余分で、いらなそうな──エロティックなものは、知性をはたらかせる対象となりやすい。
色気があるものは、概してエロティックである。
ちなみに、このイラストに対しては「さすがに太い」と言った感想が高頻に見られた。
それはそうである。そもそも全体のプロポーションの優先度は「美しき太もも」の追及よりも比較的低いらしいことは予想のなかでも低次のものだ。
また、「『ハロー効果』『シミュラクラ現象』『確証バイアス』などの色んな分野で色んな名前の付いた美化に伴う様々な認知機能への補正は、今回の芸術においてはその存在の大きさを増大させる形式で発露している」というのは、一般的には知性の前提である「知っていること」からは外れていることが多い。
何だったら、僕でさえイラストのために線を描く際の、身体の微細な筋肉の運動の総体などは経験しておらず、どんな触覚や緊張をもって描かれたのかは推し量ることができない。
結果として、創作者と閲覧者の間では、魅力の追及による美化と、客観性およびその由来である危機意識との間での錯誤が生じている。
あるいはまた、こうも言えるだろう。
創作者が思い描いた美しき「太もも」と、閲覧者の思い描いた美しき「太もも」は異なるものだったのだと。
……そろそろ声優のオタクが書いた文章を思い出してみよう。
彼は、果たして彼が言うように「推しのフェチを満たした」のだろうか。
「『シャツの袖を捲る仕草』がフェチである」というのを、今までと同じ言葉で分かりやすく翻訳しよう。
そうすると、「『シャツの袖を捲る仕草』に知性のはたらきが促される」と翻訳できる。
また知性の条件は既に知っていることであるから、「『シャツを捲る動作』をした男性を知っている」ということも分かる。
心の弱い声優オタクへの配慮からというのではないが、加えて言うと、「知っている」というのは必ずしも交際関係にあったということを意味するものではない。
休日に兄弟と連れ立って行った映画館の俳優や、友達と笑い合った日のませた話題や、インターネットの人々が出した結論や、あるいは過去に交際していた人間が含まれるのかもしれないが……そういう生まれ育った日々の折々で現れた「シャツの袖を捲った男」のことを、その日々のことまでまとめて、思いつつ知っている。このとき、それは「愛している」というよりもむしろ「懐かしい」、「憧れている」のである。
さてそうすると、「シャツを捲ったオタクが推しのフェチを満たしたかどうか」という問いは、「土屋李央さんが懐かしく思う日々において、想像された『シャツの袖を捲った男性の名残』が、フェチだと紹介されてから慌ててシャツの袖を捲った客席のオタクにも備わっていたのか」という問いに変形できる。
……あなたはどう思うだろうか?
しかし僕としては、彼は「推しのフェチ」を満たしたのではないかと思う。
壇上の声優さんにとっても、土屋李央さんにとっても、壇上の自分たちの言葉を受けて袖を捲った客席の大学生は、「アホのオタク」の典型を思わせるものとしては十分に知性を促されただろうからだ。
意思疎通
私たちの形成する意識は相互に独立している。
これは例え話だが、なんやよう分からんチャラついたガキンチョの、YouT◯beなりで有力者ですなんてふうにデカい顔でインテリぶってる薄っぺらい馬鹿が、ある日人通りの少ない道端ですっ転んで顔を真っ赤にしているのを見たとして、僕は同じように顔を真っ赤にしたりすることはない。むしろ手を叩いて笑うだろう。彼が平気な顔で耳まで赤く染まり上がっている一方で、僕は良いものを見た最高の気分でケーキを買って家に帰る。自信がある。
薄っぺらな馬鹿が死にたい思いをしながら擦りむいた膝が痛いとき、同時に僕も膝が痛いだなんてことがあったらとんでもない話だ。ケーキが美味しく食べられないではないか。
……そんなふうに、私たちの意識はそれぞれに断絶しているのだが、しかしそれでも時には他者との意識の統一を図ることにより、集団としての生存に有利な機能を実現することになった。
意思疎通の方法は敢えて分ければ二種類に分けられる。①抽象化する方法、②具体化する方法の二つだ。
①抽象化する方法
軍事略語一覧 - Wikipedia
この方法それ自体はそれほど面白くないから説明するのが面倒だ。国際軍事用語や航空管制用語、西洋系の哲学用語一覧でもみていれば分かる。
物事は抽象されると色気の余地が削られていき、一般性が高まる。一般性が高まるにつれて単なる符丁に近づいていく。
結果として、表現の方法や対象を含めた一般性が高く、誤解の可能性が減らせる一方で、表現に要する単位当たりの情報量は少ない傾向がある。
また、その一般性に甘えて表現の方法や内容自体の検討がなされない場合には、すぐに冗長でつまらないものになる。
②具体化する方法
門扉が広いのはこちらだ。
私たちの日常の意思疎通はほぼこの方法に依拠している。言葉や身振り、表情が含むそれぞれの色気は、参照する「美」……文化に依拠している。
同じようなものを知って、同じように生きているほど……文化を共有しているほど意思疎通の可能性と密度は向上する。
文化を同じくしない場合には特にそうだが、そうでなくとも相手の理知に一定程度期待する方法でもあると言えよう。
誤解や意見の食い違いを招くのは大体この方法での表現だが、意思疎通それ自体が楽しいという促進の機序まで含めて、常用に耐える機能を実現しているのもまたこの方法での表現である。
【いきどまりの自由】
本コミュは、エロスからエロティシズムへの変遷が描かれたノクチルの現在の地点と、変わりゆく彼らがどのように受け取られているのかが描かれる。
詩を中心として、唯美主義の可能性、特にここでは知性を放棄したいという意味での反知性主義、あるいは唯物主義について語られる。あるいはそれは不出来な若者についての評論でもある。
本記事では、とりあえずまあ、あくまでも楽しい読み物としてのシナリオ描写を補いつつ、筋書きをざっくりとまとめていきたい。
まとめ
オープニング:限りある日常
今回のコミュは、よくいる中途半端な男が登場するところから始まる。
彼は高校二年生に向けた講演を行っている。ノクチルの通う学校の卒業生で、現在はインフルエンサーなる肩書で活動しているらしい。
この講演を見たところ、段取りが悪く、それが原因と思われるぐだつきがある。
彼の構成が悪いため、仕方がないから一つ一つの発言について見ていこう。
まず、「とりま」と前置く彼の結論としては、「夢」は抱かない方がよいらしい。
教養と題した項を読んだ人には翻訳していただけるかと思うが、彼の整理されていない思考が出した結論は、私が補完してやると知性の放棄である。
特に彼は「夢」、つまり想定される完全な姿を想定しないことが重要なのだと説いている。
しかしながら次の瞬間には、「叶えたい目標があるのなら」と想定されるべき姿であるところの「目標」を持ち出す。「それに向かって突っ走る」というこの発言においては、「目標」が人間の目指すべき対象であり、つまり合一の欲求の対象として「夢」と同義である。
言葉としての「夢」と「目標」は確かにニュアンスが異なるのだが、進路指導に関するのであろうこの状況とスピーチの対象においてはそこに差が認められない。
次に、「とりま」と結論らしい前置きをしたにも関わらず、彼のスピーチの構成では無用であるはずの、自己の主張とは無関係の現在の状況に触れている。
彼が続けるには、「卒業生である自分が『卒業生を迎えて話を聞く会』に呼ばれたのは何かの縁」であるらしい。
ここでは、スピーチによくある構成や、「何かの縁である」という慣用表現を通して、「夢を抱くな」と主張しつつも、「夢」という言葉が示しているものと同じものを形成し、それを無意識に模倣している様子が示されている。
こういった卒業生による講演会というのは進路指導における自己の将来像……「目標」、あるいは「夢」……エロースあるいはエロティシズムの対象となる「美」の形成を促すために行われるものだ。つまり、模倣し、接近し、そしてゆくゆくは実現するべき自己の姿を描くよう促す催しである。
「何かの縁」などというべき偶然があったのではなく、アイドルとして芸能業界で働いている生徒を擁する学校に、背景を同じくする卒業生がいたのであれば、それは良い先達と期待されたものと考えるのが妥当だろう。
そうすると「こうして呼ばれたのも何かの縁」という文句には意味するところがなく、彼が定型句を真似ただけのものであると感じられる。
彼の主張である夢の放棄は目標を前提に活動するのだという主張に既に矛盾しているのだが、ここでも彼自身の模倣行為自体によってさらに失敗している。
言行不一致もいいところである。
そうして矛盾を生みつつ進むぐだついた話のなかで、彼は「パッション」なる言葉を持ち出す。
このとき、「パッション」という語自体に定義や指示する内容は存在しない。
この語は、彼の矛盾した整理されていない、いい加減な主張とそれに基づくスピーチを、しかし完全に補完する最高位の言葉である。
ちなみにキリスト教では、教義の原義である色気の禁止とともに旧来の西洋人の理想であるところの行動する人間像の両立がなされなければならないというおよそ動物には不可能な現実の矛盾にあたり、「パッション」と同様に agape──いわゆる「愛する」という言葉を発明している。また「愛する」という行為の主体は無欠の絶対者であることから、「動物性」を伴わない神の存在が要求され、そして仮想された。
キリスト教の発明者と彼の違いは、後者がより中途半端であるというところである。
ここで彼には伝わっているか、伝わっていないかがどうにも分からないらしい。
無駄な話の終わりに、ようやく結論が提示される。
彼は結局、ここでは「夢を抱くな」ではなく、「目標があるなら言葉と行動を起こすこと」としている。
それから、午後から長い時間行われた集会の後に、話を聞かされていたノクチルの二人によるごく短いコミュニケーションが描かれている。
共有されたのは強いていえば空気感だ。これは非言語的と言えるような非常に雑多な情報である。
ここでは、意思疎通が成功したかどうかという点において、インフルエンサーと彼女らのやりとりが対比されている。
その後にはモールス信号の挿話がある。
ここでは、コミュニケーションにおける抽象化された方法を提示している。
モールス信号は「トン」と「ツー」のように具体化される点と線の二つを組み合わせることで、事前に両者の間に決められた文字を伝達するものである。
単位時間あたりの情報量は非常に少なく、構造上意味の密度の点では通常の言語の下位互換である。そのため、「SOS」のような、単純で、抽象化した結果の一般性が役立ち、つまり伝達対象の文化的背景の多様さによる誤解の可能性が排除できる単純なメッセージを事前に取り決めることを前提としている。
そして次に提示されるのが今回のコミュで長いこと登場する「自由律俳句」だ。
どうやら「世代ごとの自由律俳句」を紹介する類聚系の企画らしい。
特にこの企画では、社会での身の上は十分に、社会階級には多少、それぞれバラツキを持たせることができているようだ。
「自由律俳句」とは、私たちの語る言葉が自ずとはらむ色気に看板を取り付けて提示するものである。一等いい加減な詩の形式だ。
例えば「スポーツ経験がない男で部活に入った経験がない男、俺ガチで危機感を持った方がいいと思う」というのを読んだとき、これは運動部での活動経験がある男によるものだと分かる。もっと言えば、少なくともその人間は童貞ではないし、髪型はツーブロック……まかり間違ってもロン毛ではない。
……このように、それ自体に魅力があれば言われなくてもこちらから興味を持って面白がりつつ考えるものを、構ってほしくて付ける名前が自由律俳句だ。他人が「これもう詩だろ」などという分には構わない。
その本質はそれ自体が作品なのだという名分であり、構造や構成上の機能もなければ成立過程およびその背景に必然性を帯びた由緒ある形式でもない。その形式自体に色気の乏しい、色気の根拠である文化の土壌の貧しい、品格に欠けた形式だ。
私の目が黒いうちに好きになることはまずないだろう。
市川雛菜は自由律俳句として、昨夜の食事内容とその感想を述べた。
その理由を講師に尋ねられると「なんとなく?だと思います〜」と答えている。
このときの「なんとなく」と先のインフルエンサーの思想信条に混入していた「なんとなく」には雲泥の差がある。彼のそれは成功に繋がった行為と苦しまなくて済むための思考の矛盾に関する混乱であったが、一方でこの「なんとなく」は市川雛菜がたどった明晰な思考とその結論としての行為である。
この詳細について述べるには、構成上の余白が少ないためここでは割愛する。
その言動は市川雛菜らしいものである。
次に紹介される自由律俳句はなかなか悪くない詩である。
特に良いところを列記すれば、まず口調が良い。「えげつない」という語彙に生まれや育ちが覗かれ、けれど「ティッシュ」を使っているあたりにはズボラすぎない生活態度が暗示されている。また何より七五調の押韻があるところがよい。当世ではいい加減な詩人たちが自由律俳句などとのたまってデカい顔をしているが、韻律は紛れもない、私たちの極めて有力な出自の一つである。色気の出やすい名詞もきちんと含まれているし、それがティッシュペーパーという舶来品の、後に生活に根ざしたのを引いてくるあたりも時代柄を反映しており面白い。きっと明治大正のころに生きた人間には新鮮に映るだろう。
なかなかどうして悪くない詩だ。
実際に詩について聞かれると、この主婦は亭主の生活態度についての愚痴を楽しむ。
先の詩からそう思われたような、なんとも主婦らしい様子だ。相応しいというのは何につけても良いものだ。
そうして会は進み、最後の参加者が自由律俳句を発表する段になった。彼は専門学生である。
しかし彼は自分の作品に自信なさげ、というのではなく自分の作品が和気藹々とした「空気」を破壊するのではないかと心配している。
自信の感覚が私たち完全に伝達されると信じて、信じることさえ意識されないほどに信じている、素晴らしい作品がお出ましになるように見える。
そして出てきた自由律俳句は『お先真っ暗』である。
この詩の評価について大阪の言葉で言えば、「しょうもない」と形容されるのが相当だ。一般的な言葉への意訳では「存在価値がない」。
まず、「お先真っ暗」という言葉それ自体が慣用句であるのだが、それを引用してきた理由や背景を示しておらず、何がどうしてどのようになのか想像の余地がない。人は誰でも将来が不安なものだ。「先行き明るい」ほうがまだ何か分かるように思われる。
この小物は、何かを伝えるための考えを巡らしたり、あるいは逆に徹底した素直さへのアプローチをとろうとしたり……なんていう努力はししようとも思わなかったらしい。
さらに言えば大トリまで温めておいて、あまつさえ「空気壊しそう」なほどの衝撃を与えるとまで言っているのにも関わらず、こんなにショボいものを出してくるのだから、自らの程度についての自覚が全くないのは知れている。然るに今後の可能性にも期待できない。
彼自身に見込みがないという点においてのみは、『お先真っ暗』であることとの関連があり、そこに僅かばかりの面白みを見出だせないこともないだろうか。
ここでは彼の発表後に会がどのように捌けていったのかは描かれないのだが、少なくとも彼が思い描いたような空気の破壊が起こることはなかっただろう。
もし講師がぼんやりとしているだけの人間でなく、さらに主催者の性格を持った立場であることを承知しているのであれば、いかにして彼の詩作をこき下ろさず、かつ悪口を愛して止まないいくらかの参加者に彼をこき下ろさせないか、とにかく努力したことだろう。
そして更にはこんな心労をかけさせているのにどこか満足気な顔をしていそうな空気の読めない、絶望すら中途半端なクソガキが、目の前で褒めてくれ同情してくれと言わんばかりに、哀れっぽくヘラついた笑顔を浮かべている。
ツッコミが間に合わなかった点に関しては俺の失態やけど、それは厳に努力義務であって、お前の醜態はお前の責任や。おもんないのは犯罪やぞ。もうええから今日はもうはよ帰れと言いたくなる。
第1話:訪問者
第1話は、学校から事務所に向かう道すがらの何気ない日常会話から始まる。
このシーンでは、意思疎通における色気の特性が示されている。
(背景と会話の内容から察するに)事務所の最寄り駅で電車を降りた福丸小糸は、一緒にいる浅倉透と樋口円香に出会う。
彼女は「もしかして電車も一緒だったのかな」と口にしており、樋口円香は「かもね タイミング的には」と言っている。
ここで、福丸小糸は一緒にいる──彼女の発言から察するに彼女の行く道の先で並んで歩いていた──浅倉透と樋口円香を見つけている。
その様子やその日の予定、学校から最寄り駅までの経路など、また総じて自身がそれらを共有していることといった複雑な情報の総体から、半ば無意識に「同じ電車に乗っていた可能性が高い」と類推しているのである。
これを受けた樋口円香の「かもね」という返答もまた、単に福丸小糸の類推した可能性の是非を判断するものではない。僕がこの言葉について詳細に類推することも可能であるが、ここに記すには構成上の余白が足りないためここでは割愛する。
そうしていると浅倉透が唐突に「スクランブルブルエゴイスト」と声を上げる。福丸小糸は戸惑うが、
樋口円香によって「電車のディスプレイに映っていた芸人の一発ギャグである」ことが説明されると納得した。
ここで示されているのは、「スクランブルブルエゴイスト」という言葉そのものが意思疎通に役立てない様である。
福丸小糸はこの言葉が分からない。より言えば、「スクランブル」という言葉までは聞こえたかもしれないが、「スクランブルブルエゴイスト」という言葉は聞き取れなかった可能性が高い。
色気に依存した日常の……雑多な情報の疎通においては、お互いに既に知っていることが重要だ。
「スクランブルブルエゴイスト」なる聞き慣れない言葉や、それを口にする浅倉透の様子は、(後者については既に同じ様子の浅倉透を知っている可能性はあるため特に前者は)福丸小糸にとって既知のものではない。福丸小糸の戸惑いは、突如発生した日常会話の失敗についてのものだと言える。
そして、直後に樋口円香から、その由緒および浅倉透の言動の起始について説明されることで、ようやく福丸小糸は日常会話の方法の成立とともに安心と納得とをしている。
ちなみに、不明であるものと美化の機構との 連関を活かして笑いを引き出す類型のものが一発ギャグには多く、ここも良い暗喩となっている。特に樋口円香のコミュでいえばオイサラバエルあたりが示唆されるだろうか。
また、浅倉透の「スクランブルブルエゴイスト」の模倣行為は、樋口円香の「そろそろやめて」という言葉により終わっている。
ここでも同じように、樋口円香の言葉が構成する命令の意味よりもむしろ、「そろそろやめて」という言葉や発言の様子を含めた物事の総体から推定される心象の共有がなされている。
そしてそれを受けて浅倉透はこの模倣をやめにしているのである。
そうしたやり取りの最後には、これからの予定が話に上がる。この状況から当たり前に──これから4人でやるような規模の突発的な仕事には時間がない夕暮れで、これまでがそうであるような事前の連絡のない催しもあり得ず、何かの記念日でもなく、詳細も聞かされておらず、呼ばれた4人は全員ノクチルであり……であるならば──仕事の打ち合わせに決まっているのである。
福丸小糸にこんなことが当たり前の雑多な物事からの当たり前の予想が全く出来なかったのではないのだろうが、そういう予想を口にしている。「スクランブルブルエゴイスト」がもたらした不可知の唐突な不安とその解消がここに現れている。
樋口円香もそういう、こんな大雑把な言い方が許されるのであれば心の動きに対して全くの無知ではあり得ない。僕であれば「どうだろうな〜?分からないよね」などと寄り添うこともあり得る。口寂しい喫煙者に安い飴を与えるようなものだ。
しかし彼女は冷たい返答を返しているように見える。
しかしそれで福丸小糸は納得している。
ここには彼女らにとっての「いつも通り」の形式と、それをどう思っているのか、そしてこれらについてどれだけ自覚しているのかが窺える。
彼らが事務所に着くと、打ち合わせの相手は既に仕事の話を始めていた。
相手はあのインフルエンサーであった。
彼はまたもや「とりあえずみんなでお話しましょうよ」と、「みんな」が集まる前に話始めたのであろうことも忘れたような、性急な、あるいは無計画──自らが漸近するべき近未来の予想を抱いていない──様子だ。
また、「メリット」という言葉には彼の知性の放棄がよく反映されている。あまり役に立たないインターネットのまとめ記事やTwitter等のSNSといった環境においては、「メリット・デメリット」、「正・負」、「正義・悪」、「ポジティブ・ネガティブ」といった表現をよく見かけるのだが、ここではその典型が引かれている。
こういった意思決定における二元論に依存した判断は、全体の計画、全体の構成を把握あるいは予想する知性が十分に発揮されているときにはなかなか出てこない表現だ。
当然のことだが、概して、ある行為には都合の良い影響と都合の悪い影響、規模が小さく定性に足らない影響が含まれるものだ。つまり「デメリットがない」というのは「悪い影響を予想できない」という意味なのだから、必ずしも全幅の信頼をもって良しとしてよいものではないし、「メリット」のなかには常にデメリットとなるべき要素が含まれる。それぞれの行為における影響の予想を事象のままあくまでも予想として留保するものが本当であろう。
そういった理由で、二元論は知性の足らない人々に御用達のものである。ただ、構成上無粋な補足だが、全てが常に十全であるのを前提に活動するなんていうのは世間知らずという別類型の知性の機能不全だ。話す相手の知性が十分に期待できないのであれば、時と場合と対象と時宜と媒体と……を選び、二元論を弄することも必要であろう。
しかし、このインフルエンサーは馬鹿にもなりきれてはいない。
例えば先の学生相手の講演では混乱した言論と思考を無に帰すための「とりま」という言葉が「とりあえず」という一般的な言葉遣いに変わっているほか、語尾には崩れつつも敬語のニュアンスが滲んでおり、仕事の場での上下関係の存在を覚知していることが分かる。また、「メリットしかない」というのは「デメリットが存在しない」とは異なるもので、意思決定において実用に足るところの定量性を与えたい、つまり物象を区分してそれから計数することで、少しでも適切な大小比較に持っていこう、という発想が覗かれる。
彼は知性の放棄を試みているようだが、実のところ知性を放棄することはできていないようだ。
プロデューサーは彼の性急な言い分に押されつつも、社会人として守るべき関係者間の調整基準に適合してきた「普通」の手順を求めている。
これを聞いたインフルエンサーは激しく反応している。
ここでも、先と同様に「計画」を求められることへの激しい反応によって反知性の態度が窺い知れるほか、引き気味な市川雛菜を象徴とした取引相手との空気感の隔絶を意識せざるを得ない状況によって知性の放棄の失敗がそれぞれ示されている。
また特にここでは「それを今、お話しましょうよ、って言ってるんすよ!」という一文が面白い。
まずは「それを今ここでお話ししましょうよと言っているのだ」という部分だろう。彼はそんなことを一切話していない。いないのだが、彼の世界は自らと同質な人々で構成されていて然るものであるらしく、従って彼が思うのと同時に人々は彼の意を、いや彼の意識を共有するのである。しかしながら我々の意識は……より適切な表現では私たちの生というものは常に厳密に個別のものであるため、「思う」と同時に人々がそれを共有する可能性は極めて低くなるのが道理だ。
次に、性急な印象というものを代表する「今」という発言が面白い。時間の捉え方のなかでも彼らの時間への認知は全体の構成を無視するところから始まる。
即ち、過去から現在、そして未来へと繋がっていく時間の前後、構築的な想像が無視される。彼らはこの時間の連続性と構築を無視しようという試みのなかで存在が確からしい現在のみに執着する傾向がある。
もちろん、何かをするのは現在であり非常に大切なものなのだが、それはそれとして現在の行動指針や方法を探るために過去を記憶し、瞬間ごとの目標を設定する契機として未来を思い描くことは、現在の自己にとって大いに有効な機能を実現している。瞬間ごとに生きている私たちの今を可能な限り高める試みにおいて、過去と未来の間で今を生きていることが如何に重要なことであるのかを、美を憎むあまりに彼は見落としてしまうことが多い。
また、同時にここでは意味上のダブルミーニングがあり、この会話のごく短い径庭で、このインフルエンサーには、プロデューサーや市川雛菜、またドアの向こうのアイドルたちとは一線を画した感情の激発がある。あるのだが、彼の放棄しきれないでいる知性の構築してしまった美による疲弊が、この逆上の規模を会話の成立を損なわない限界にまで縮減した結果、急峻な発音の変化と、「それを今、お話しましょうよ」とその言葉における発話者としての猥褻度……主体性を減じるための「と言った」という姑息的な二の句に表出している様子が描かれている。
そのまま彼は事務所との合意──他者との目標の共有──を得ないまま、計画のない「具体化」を行っている。これは計画という知性の試みは行われず、具体化するべき目標もまた存在しない。
また、ここで企画については「事務所に任せて構わない」と言っているところも面白い。
企画、つまり計画には豊かな理知が要求される。より詳しく言えば、未来の出来事を予想する知性を土台に、知性を有効活用するために理性をもって適切に未来像を分解し、それぞれの区画において知性を発揮し、寸断されたそれぞれの未来像をまた知性によって統合し……またそれを理性によって分解し……組み上げていく段取りだからだ。
それぞれの段階において知性が現実に準じた予想を行えなかった結果の苦痛を生じる可能性が常にあるため、冗長性を確保するなどの経験由来のものらしい考証も要れば、何より体力が要る。さらに言えば彼らの職業は、機能上の結果だけではなく、その結果が視聴者と共有・もしくは少なくとも面白味のあるなにがしかを目指さないといけない。
計画は、知性を放棄できるかどうかでじたばたしている中途半端な人間には到底立てられない。
ここでこのインフルエンサーは「事務所が企画を立てても構わない」と、さも計画が立てられるかのような言葉を発している。
彼のファン層は未熟者の彼を見ていて知性が十分に満足できる者か、あるいは普段から彼を眺めていて彼の限界を察しつつ見守っているもの好きか、とにかく平素のぐだついた彼で構わない者なのだろうが、それ以外の人間が立ち会う一般性の高い場に適合できるだけの企画が立てられないのは明白だ。薄々それを悟っているのも面白い。
「企画立ててもらっても」ではなく「企画立てていただいても」と謙譲語が出てしまうのも機能に応じた上下関係の発生を無意識に認識してしまっているのが歪で最早可愛いのかもしれない。殴っていいか……?
細かい表現で言えば「企画立てて」と、てにはをの「を」を抜かしてしまっているのも目的格と主格の関係の無視の一表象として丁寧だ。
彼はこの後「エモ系のネタがはまると思う」というのだが、彼の構想に具体化に耐えるだけの強度があるようには思われないというのを抜きにしても、「はまる」はずの予想を他人に譲るというのは、企画を持ち込む者としては随分おかしな話である。
そしてまたそんな想像を抱く様子は彼の思想信条に背いている。
ここでは、生まれ育ちを共にしてきたノクチルと、普段から仕事での仲間として苦楽をともにしている事務所のなかのやり取りの、それぞれ色気に依存したやりとり、そして外向けの仕事にあたって一般性の高い手順を求めるプロデューサーと、それら全てを無視しようとして無視しきれないインフルエンサーが描かれている。
(後略)
第2話:最後に
本話では、映像制作にあたって知性が足りない存在として卒業制作に臨む専門学生が描かれる。さらに先のインフルエンサーよりは若く、然るに反知性への信奉は彼ほどではないものの成功失敗を問わず経験に欠けており、比較的実用に足らない。
彼によって「自由律俳句」というものが映像制作における題材として用いられるのであるが、この模倣にどれほどの効果があり得るのか予想されているとは考えにくい。自身から思いつくものがなかったから最近知ったばかりのものに飛びついたように見える。それに懲りないあたり自分のとんでもないやらかしには気付いていないようだ。
特にメンバーそれぞれの「自由律俳句」の後にノクチルとしての「自由律俳句」を撮ろうというのだが、これは悪い。メンバーそれぞれの「自由律俳句」が含む色気とそれが示唆する「美」と、後に提示するというノクチル全体の「自由律俳句」が含む色気とそれが提示する「美」のそれぞれは、変化し続けている彼女らにとって相互に排他的である可能性が非常に高い。
さらに言えば、彼はノクチルとしての「自由律俳句」の作成を浅倉透に一任するのであるが、彼はノクチルのリーダーではあってもノクチルの全てを全人的に代表するノクチルの体現者ではあり得ない。彼の素朴な言葉は、「幼馴染の仲良しグループで炎上商法まがいのめちゃくちゃなことばかりやっているやつら」が言った言葉ではあり得るのかもしれないが、「ノクチル」の言った言葉とは必ずしも一致しないように思われる。ここで専門学生が的確に分析したのは、自身が「にわかファン」であるということだけであろう。
「自由律俳句」とは本当のところ何であるのか、「自由律俳句」とその魅力の発揮にあたってはどのような注意と調整が必要なのか、「ノクチル」はどんなグループなのか……十八そこらの彼女には未だ分からないことばかりらしい。
「せっかく目指したのだからせめて卒業に当たって一つだけでも」と語る彼女の制作動機には、インフルエンサーによく似たいい加減さ、整理されない曖昧さを含むようだ。
そんな彼女の企画にもやはり、よく似た構成感の乏しい平板さに効果の出し方を知らない平凡さ、やりたいことさえ想像できない凡庸さが表出している。
第3話:見つかった言葉
ここでは言葉とそこに含まれる色気の効用が示されている。
専門学生は「自由律俳句」を考えるよういった一方で、撮影時のディレクションとしてそれぞれに「撮りたい画」を示している。
これはこの女が思っている以上に失礼なことだ。
詳細は省略するが、詩の制作にあたっては徹底した自我の放棄か、あるいは徹底した自己分析かが要求される。「自由律俳句を制作する」という目的が意識されているのであれば、実用に足る目標は後者に限定される。
これもまた詳細は省略するが、いち早く「自由律俳句」を完成させた市川雛菜とその次に提出した樋口円香は、それぞれこれまでの生活やアイドル活動や人生そのものを通して、自己分析を行ってきた二人でもある。
このノクチルを題材として個人に注目するというこのショートフィルムにおけるディレクションは、監督による「(私の考える正しい)あなたの『自由律俳句』およびあなた自身の解釈」であるのだが、人生の苦痛を前提とした自己分析を経た「自由律俳句」を持ってきたような人間としては、気楽な見物人の立場にいただけのいい加減な人間が持っている程度の人生の語彙で想像されるというのは不快なものである。
行間に描かれた市川雛菜の無視は堂々たるものだ。樋口円香との対比においてのみ示唆される形で行間に書かれているくらいに自然にやれたらしい。
人間の成熟という階梯において、市川雛菜はこの監督よりもはるか高みにある。彼女の見る世界を予想するのであれば、彼と同じ高みまで登るか、手を差し伸べてもらうかする必要がある。
また、「自由律俳句」を要求された市川雛菜の制作した「はぜる、色づく、ずっと」という詩は、理知的になってしまう俺たちとしての制作物としてはなかなか悪くない出来だ。
理想の詩ではないが、理想を胸に抱きながら、自身に実現可能な最大限度を仮の目標を立てて、さりとてなお理想は理想のまま凝りとして彼の胸に苦痛をもたらしている……その詩自体は最高のものではあり得ないが、少なくとも何かをやる人間の態度としては悪くない。
この詩を楽しむ対象の規模は小さいだろうが、想定される美の輪郭はよく、期待値は悪くない。専門学生が何となくぼんやりと口にしている「自由律俳句」よりはずっと優れた「自由律俳句」にはなっている。
ここには言葉というものに含まれている色気の効用の、特に実用に足るだけの効用を発揮する一例が示されている。話し手の表現が不完全であっても、受け取り手がその言葉の意味するところを正確に理解し、そして全体の目標と可能性についての評価が可能であるならば、適切な意思疎通が実現される可能性がある。逆もまた然りだ。
言葉という物体に色気が存する限りにおいて、つまり会話の参加者に知性の試みが行われている場合には、コミュニケーションの参加者全員の完全な認知は必ずしも要求されない。
……分かりやすく言うと、いい感じにやってやれるやつがいれば、適当にやっても結局なんか上手くいく場合がある。
次の樋口円香の制作物については、いやにディレクションが細かい。
そのうえ先の撮影と同様に非常に失礼でもある。
しかしながら今回は専門学生の発言が割と的を得ていて、以前までの彼を意識したものとすれば必ずしも見当違いとは言えない。またその後、樋口円香の質問への返答についてもなかなかどうして悪くない返事がある。
一つのプロジェクトを終えるということは、一つの行為の結果を対象として十分に観察できる立場を獲得するということでもあるが、それとは別に実感のともなった言葉のように映る。あるいはこれまでに触れてきた映画監督による同じ状況における発言の単純な引用という意味で、単なる無意識のいい加減なモノ真似に過ぎないのかもしれないし、彼女の生き方と以前の樋口円香の様子が似ており、結果として樋口円香の姿に色気を通した理解を得られるだけの背景が共有されていたからなのかもしれない。
(後略)
第4話:見つからない言葉
ここでは「期日」というものを通して「計画」が存在するときに発生するエロティックな状態の強調がある。締め切りが存在しない場合において「締め切りを守れない」ことはないのだが、想定する「普通」の、つまり「美」の一般性に準じてことは進む。彼は締め切りを守れなかったのだ。
監督に謝罪する機会を用意してもらった福丸小糸は、自身の至らなさを悔やんで──自身のエロティックな様態を恥ずかしく感じて──いる。
そんな彼に、監督からは「間違っていたら申し訳ないが」と断った上で、「福丸小糸自身ではなく、ノクチルの福丸小糸として『自由律俳句』を考えていたのではないか」と予想している。
前話のディレクションと同様に他者の人間像の予想であるが、ここでは間違っている可能性とやや曖昧であるが自身の行為が失礼に当たる可能性を考慮できている、つまり自身の描く「想定」と他者の実像の乖離が起きている可能性を認識できており、一定程度の理性の発達が見られる。
しかしながらこの予想自体は間違っている。さらに「間違いとか正解とか、ないんです」という言葉はニュアンスはさておき、整理されていない、人前に出すには不十分な認識から発せられた言葉だ。
前者について言えば、福丸小糸は「確かにそうかもしれない」と述べるのだが、実際の自身を振り返る過程では「ノクチルの福丸小糸」ではなく「わたし自身」の言葉を考えていたと述懐している。
後者について言えば、この監督がこの発言の瞬間に想定し、混同した結果発した「間違い・正解」にあたるものは存在する。
ニュアンスを踏まえると、「優れているもの」と「劣っているもの」が、「適切なもの」と「不適切なもの」が、「らしい」ものと「らしくない」ものとが、曖昧ながら存在する。
義務教育における各個体の能力の差くらい、あるいは陽キャと陰キャが分かれるくらいに、存在する。
それらを振り分ける「原型」は、「基準」は、「規格」は──輪郭の定まらない美の影は、私たちには「見えて」いる。
「間違い・正解」という表現は、この未熟な監督が、間違いと正解のあるペーパーテストから生まれたのであろう、正誤における絶対性に関して言えば確かにそれは保証されない。しかしながら、彼女が人間たちが……ひいてはそのそれぞれの生、それぞれの世界が一つの文化として描き出す彼女の印象は、常に浮動しつつも、存在する。
彼女の発言は曖昧さがもたらす誤解を含んでいる。
この誤りを審らかにした福丸小糸の「私自身の言葉を作らなければならないと考えていた」という述懐もまた誤りから生まれている。
しかしどうしたことか、彼女の言った「わたし自身の言葉を作らなきゃ」という言葉は実に福丸小糸らしい。
この言葉の先には福丸小糸の気配がある。この言葉に福丸小糸は「存在」している。
ここでも、前話にて市川雛菜の理解を通して描かれた、両者に良好な理解が保たれていないながらも成功する意思疎通、ひいては言葉に含まれる色気の効用が描かれる。
また、ここでは特に、片方が十分に優秀であった市川雛菜の例とは異なり、相互に未熟である二者間の成功を描いている。
この成功の原因である行為の実行とその動機についても注目していきたいところだろう。
(後略)
第5話:そういうの
浅倉透はいまだ「自由律俳句」を作っていない。「今日食べた晩ごはん」という言葉から夜も遅いことがよくわかるのだが、そんな時間になってもイメージすらない。
市川雛菜は「今日の晩ごはんを作品としてしまえばよいのではないか」と提案する。「自由律俳句」の本質を理解している彼は、初めてのときにこのアプローチでの失敗を経験している。そんな彼からのこの提案には、今回の出演作品に対する冷静な観察、あるいは浅倉透へのある種の信頼が感じられる。
浅倉透は信頼の通りの、何らの気負いも感じさせない挙措をもって応えた──「酸辣湯トマトラーメン」。
さて、「酸辣湯トマトラーメン」を読み、浅倉透を思い浮かべる人間があり得るだろうか。例えばこれが「ナポリタン」……であれば聞いて斑鳩ルカを思い浮かべるというのがシャニマスのプレーヤーだろう。しかし「酸辣湯トマトラーメン」である。
そもそも「酸辣湯トマトラーメン」とはなんなのだろうか。そしてそれを口にしたのが浅倉透であり得るのだろうか。
確かに、浅倉透が口にした言葉であるという前提があるのなら、酸辣湯トマトラーメンはそれらしいとも言える。見たことのない流行りモノで、ジャンクで、酸味の刺激感があって、美味しいっちゃ美味しいけど、なんか微妙で、結局なんかよく分からん謎の味がしたら、浅倉透は多分擦る。勢いだけの一発ギャグみたいに擦りそうだ。
けれど、浅倉透を知らないおじさんが、どこぞの高校二年生の口にした「酸辣湯トマトラーメン」を聞いたときに、思い浮かべるのはなんだろう。それでも私たちは浅倉透の発言を思い浮かべるのだろうか。
これにはやや疑問が残る。
「浅倉透が『酸辣湯トマトラーメン』を真面目な詩として発表した」というのは確かに浅倉透らしいのだが、「酸辣湯トマトラーメン」は浅倉透らしいとは言い難いのだ。
少なくとも、「今日の晩ごはんとかにしちゃえば~?」と提案する市川雛菜や「えっ……」とそれに反応する福丸小糸や、「いいんじゃない?『自由』だから」と言う樋口円香より、「酸辣湯トマトラーメン」は浅倉透らしくない。
「酸辣湯トマトラーメン」は、ある浅い眠りの夢のように脈絡のない思いつきなのかもしれない。この料理はさして何かを示さない。これがせめて「ラーメン荘 地球規模で考えろ 伏見本店 全マシマシ大ラーメン」であれば話は変わってきたのだが。
さて、提案むなしく「自由律俳句」は上手くいかなかったのだ。その上、浅倉透にはノクチルとしての「自由律俳句」の制作も課題に残っている。
それを聞くと、浅倉透はおもむろに部屋を出ていこうとする。
そんな彼に市川雛菜がどこに行くのか訊ねると、彼は「散歩」とだけ答えて外に出た。皆はそれぞれに着いていく。
外は寒い。歩き始めると樋口円香は早々に「『目的地』はどこか」を訪ねているが、散歩に出た浅倉透からはっきりとした答えはない。目的のない、ただの散歩らしい。
みんなが寒い寒いというので、浅倉透は「暖かいとこ」に行くことにする。
すると、思いがけずあのインフルエンサーと行き遭った。
彼はどうやら仕事である配信活動の一環としてコンビニに立ち寄っていたらしい。
こんなことが起こったのは数奇な偶然ではない。同じ高校の通学圏に過ごしている彼ら、特に活動のために動き回るインフルエンサーと幼馴染で一緒の生活圏に定常して夜を過ごすノクチルの両者にとって、これは十分にあり得ることだ。
特に、最近母校を訪れたこのインフルエンサーには少し変わっているはずの街並みにどこか思うところがあったり、家族の顔を思い出したり……しても何ら不思議ではない。
彼はぶらぶら──あてどない散歩をしているのかと問いかける。
この予想は、これまでに彼がしてしまった誤解のなかでは際立って正しいものだ。4人もの人間がご飯時を過ぎた、後述する心霊スポットに赴くような時間に出歩く理由としては、随分と相応しくない予想である。一般的ではないのだが、しかし彼はほとんど正しい予想を立てた。ノクチル……正確に言えば浅倉透は、まさしくぶらぶらと散歩に出たのである。
どうしてだろうか。それはただ、目標を……期待を……夢を……本当のところで目指すべき何かを見出せないでいる人間の素朴な言葉だったからではないだろうか。どんな詩を作ればよいか分からないでいる浅倉透の振る舞いを言い当てたのは、彼もそうだったからなのだろう。
しかし、今のノクチルは「ぶらぶらしている」わけではなく、「アイス」や「温かい飲み物」や「何か」や「温かい場所」を求めてコンビニに向かっていたのである。
そして瞬間彼は思いついて、「もし(私がそうであってそして今もそうであるように)何をすればよいのか分からないのであれば」、「これからの心霊スポット訪問での録画および同時配信にノクチルも出演しよう」と提案している。
「心スポ」というのは面白い暗示だ。
先ほどの「ぶらぶらしているのか」という予想がかなり正確な予想であったのに対し、この略称──不完全な名称ながら相互に共有する背景を前提に、色気に依存したオブジェクトの示唆によって情報交換を効率化する類型の言葉──は失敗している。
また、「心霊スポット」を「心スポ」と短縮 する発想それ自体からも知性が欠けていると言えるだろう。
心霊とは、時空間および観察者の状況および状態から自ずと想定される……つまり「美」を強烈に予想してしまうとき、美化一般の……恐怖に際した反射に属するバイアス、そのうちの双眸であることなどが人間の類型を予想し、実際にいないはずだが、そこにいないはずがないものを予感する現象である。
そう、心霊の幻視は「美」を予想する知性に依存している。然るに「美」の存在を否認する唯物主義者の彼の人格においては「心霊スポット」などつまらない、よく分からない、退屈な場所に過ぎない。
今の彼にとっては、暗いだけの夜というもの並びにそこにある明るいコンビニは、ただの夜とただのコンビニに過ぎない。ノクチルにとってそうであるような、いつか思い出す、冬の夜に浮かんでいた寂しくも暖かい明るみではあり得ない。
心霊スポットという言葉それ自体が略称なのである。人に美を予感させやすい……知性を強く刺激する……色気の芳醇な、条件の揃ったそれぞれの場所を指した略称なのである。私たちは「異世界転生モノ」を「いせてん」などとは略さない。実際に心霊スポットとして「心霊スポット」に行ったことのある人間には、あるいは「心霊スポット」を恐ろしいと思った人間には自ずとそれが分かる。そうした人は「心スポ」なんていう二重の省略はやらない。
これから流れる「心スポ」配信は青年の大袈裟な身振りが映るに過ぎない。もっとも近くにいるはずのものが心霊を信じないのであれば、視聴者もそこに霊の存在は予感し得ず、何かが起きる期待なんて抱けるはずもない。彼自身がいわくをつけるものでなくてどうして心霊にいわくがつくだろうか。暗くて虚しい画面には寂しい青年が惨めな様子で映ることになる。
……人一倍現実を見ていそうな市川雛菜だが、しかし「心スポ」何を指しているのかが分からないと言う。彼の心境を予想するための背景のことなど知らないのか知っていて表に出すなんてありえないと考えているのかは知れない。
どちらにせよ、これは明確な、此岸と彼岸の間にある強烈な懸隔の提示であった。少なくとも「お前とは違う」ということを意味している。
それでもなお食い下がる彼に、もう遅い時間であること……女子高生であり、アイドルであり、実家に暮らす子供であり、家から散歩に出かけただけの状況であり……そんなノクチルにとっては今から彼とどこかへ行くという可能性は存在しないことを告げる。
時刻という一般性の高い事柄、特に社会における自身らの身の上が学生であることは制服から目に見えて分かる……否応ない、認めざるを得ないサインである。
すると彼は先の事務所での振る舞いからは一転、「そうですよね」という同意を示した。それから敬語を使うのをやめたようだ。
彼は了承されていた方が困っていたのだと言う。この判断は、SNSでのいわゆる炎上の可能性を仕事での成功を目指すに当たってのリスクとして、彼の言葉では「デメリット」として捉えた結果のものらしい。定量性はごく低いながらも評価の俎上にはあげているようだ。
それから醒めたように先日の訪問に触れ「あんな風に押しかけた」ことを反省している。
しかし、次に彼が口にしたのは「ノクチルは、そういうのじゃない」という言葉だった。先刻の市川雛菜のような突き放す言葉だ。
彼はノクチルを「そういうの」だと思っていたのである。
「そういうの」とはなんだろう。
ノクチル……SNSで炎上を繰り返すお騒がせな高校生で、幼馴染だけの世界に生きているやつらで、あてどなく夜にぶらつき、仲の良い友達とつるみ、珍しいことに人の目に映る仕事をして……自分と同じ学校で、業界で、生きているノクチルのことを、彼は「そういうの」だと思ったのだ。
母校での講演の日に見えたこと、事務所を通して仕事の打ち合わせの機会を設けられたこと、夜に巡り逢えた偶然のこと……それぞれの喜びと期待に目をつむって、彼は自身の成功を唯一支えた「パッション」に縋った。そしてそれがそれぞれに拒絶されて、彼は冷めたのである。
ノクチルは「そういうの」ではなかった。「期待」に目をつむったのは期待を事実だと思いたい余りに抱いた期待の表象の一類型に過ぎない。
……彼は自らを見つめることすらノクチルを通してしか、それも「そういうの」ではなかったのだとしか表すことができないでいる。
そんな彼の冷酷な言葉は、愚かな期待を抱いき続ける自分や、「そういうの」ではなかった……みんなと同じように、彼と同じではないノクチルに投げかけられていたが、その振る舞いさえ、インフルエンサーの目に映った向こう側の彼らの姿の模倣なのである。
この未熟で卯建の上がらない若者の、知性への拒絶がどういった機序により形成されてきたのか、どうして彼はそんなにノクチルとの共演を希望したのかを示す言葉だろう。
彼は何度もこうやって生きてきたのだと思われる。
そして彼は敬語を使い、「俺の動画も見てみてね~」と宣伝をする。
敬語を使い、それを止め、また敬語を使い始める一連の振る舞いは彼の儀式であった。抱いた期待が見えないフリをして、期待が裏切られたことを受け入れて、そしてもう期待を抱かないために区切りを付けるためのものである。ノクチルを視聴者になるかもしれない一般人──自分と同じ「そういうの」ではない人間として扱い、期待を抱かないために諦めたという事実、つまり明確に自分とは別々の人間であるという証明を必要としたものであった。
彼はそのままその場を後にする。引き気味であったノクチルであるが、しかしながら、そんななかで浅倉透は「自由律俳句」の着想を得たようだ。
行き詰った先での散歩や未熟な誤解をきっかけにした「自由律俳句」への着想を代表に、体温を奪う寒空、心霊を見させたもうたなにがしか、伝わらない略称、インフルエンサーが軍手を用意する段を動画に収めていることなど、その他様々なものを通して、行為のきっかけにあるエロティックな様子が象徴的に描かれる。そしてそれらが生む輝きとその実体のエロティックな実体が示唆されている。
第6話:見つけられた言葉
(略)
エンディング:始まり(終わり)の切れ端
(略)
ここまでインフルエンサーと同じように、知性に不足があった専門学生だが、彼は夢を持つことにしたらしい。
感想
批評的な性格の強い一作だった。
馬鹿の造形に全力!!!!
全力全力全力ゥ!という感じで、インフルエンサーの描写に異様な完成度があった。そこに全力すぎて、その後は流れで……っていう感じになっているのも面白かった。
作品自体の感想としては、細かく言えば審美の失敗に起因する傷付きが発生してすーぐに萎えぽよになるぴえんなインフルエンサーがやっぱり面白い。
彼の傷付きが発生するときには、いつも自らの知性が描いた誤った期待……審美の失敗があるのだが、この原因を単に知性そのものであると結論付けてしまう。知性は彼にとっては「デメリットしかない」ものらしい。
知性の効果的な活用は作中で現れた計画立案の能力をはじめとした、あらゆる建設・構築の取り組みに必要なものだ。少なくとも男に生まれて一人前になりたいのなら避けては通れない。
彼が現実に傷付けられる前にはいつも何かを思い描いた経験があったらしいのだから、知性があるからだめなんだと考えるのは確かに論理っぽく見える。しかしそれは現実との軋轢に耐えるだけの強度のない論理だ。
結果として、人は論理の領域に、愛だの情熱だの資本家だの悪魔だの神だの……抽象の稚拙さを誤魔化すために論理の領域に緩衝材を用意しがちだ。現実にそんなものはないから当然むざむざ傷付き続ける。
そうして傷付きながら生きていると論理の果てに知性を放棄することを願うものらしい。それが収斂の先にある形式であるという点において、彼らが知性に依存していることに気づいていないのは残念である。
そしてその上で、知性の機能を縮小することで、何を失うことになるのかどういったデメリットがあり得るのかを予想するのに必要なだけの規模で知性を実現できなくなり、結果「メリットしかない」方法論を疑うことができなくなっている。そうして、「知性を放棄する、そうする」という観念は知性の縮小故に検証されることもなく、ずっと縋り付けるものに感じられるのだろう。
そしてインフルエンサーとしての……敢えてこう言おう成功を求める彼のあり様は、まるで知性の放棄を実現できていない。
実際のところ彼に必要なのは知性の放棄などではなく、むしろ自分の心の動きを客観視する方法を探したり、その動きを細分化したり、細かくなったそれぞれに介入可能なものがあるか探したり……つまり知性を最大限膨らませた上で、それを効果的に扱えるようになることではないだろうか。
その過程では今までと同じように、あるいは今までよりも傷付くことにはなるかもしれないが、無意識に傷付くことは減るだろうし、そのうち傷付き方を選べることは増える。何よりも、傷痕に何かを見つけられるかどうかは大きく変わってくる。
彼が、知性とその失敗がもたらす傷にさえ含まれている「メリット」に気付くのはかなり遠い未来の話になりそうだ。
……内容がこうだから当たり前なんだけど、理解するのはかなり難しいようで、TLを見る限り「なんかいい感じになったらしい……んか?」みたいな雰囲気になっている印象がある。
インフルエンサーの態度と樋口円香の関連まで読んだり、浅倉透の過去のプロデュースコミュにて語られる「息したいだけ」という表現の内容の理解を踏まえて「いきどまり」、そこから詩との関係を見つけて第5話での内容について考えたりして、「ああそういうことを言っているんだなぁ」と思える人がどれだけいるのかはだいぶ微妙だ。
文脈として必要なものを飛ばしているわけではないと思うし、近ごろ時間をかけて長いこと書き続けてもいたので、論理の跳躍はないと思う。ただ、それはそれとして確かに難しいのかもしれないなとも思う。
やっぱり複雑な内容を表現しようと思ったら、俗っぽい分かりやすさを出せるのかが課題になるようだ。そういう意味で「実在性」、要するに色気に関する表現を試みるというのは有効なアプローチで、実際にエロティシズムについて書くにあたって小説というものが広まったことからも特に疑わない。
色気に依存した表現を許しさえすれば、より奥行きのある世界とその論理の構築を可能にする複雑な背景情報の総体を示す、という目標も現実的になる。
一方で、生まれ育ちや素養素質、注意深さ、向き合い方によって伝わる内容が大きく左右されるのも確かで、「実在性」という言葉自体が混乱を招いているのと同じように、誤読や理解の放棄も見られる。
そしてその誤解に気付くことで、より正しい読解への反感や作品やその方法への憎悪に繋がっていくような可能性も生まれることもあるだろう。
ただ、そんなふうに誰かが嫌な思いをするから頑張りませんとか、毒にも薬にも娯楽にもならない薄いものを人前に出しますとか、ちゃんと思ったことを伝えるのは諦めて自分と自分の仲間だけが満足できればそれで満足ですとか、悪く言われるのが嫌だから他の誰かが言ってくれた以上のことは言いませんとか、そういうのはつまらなくて、楽しくない。
実在性……色気と劇性は、何もそれぞれがトレードオフになるようなものではないから、構築された世界の物語然とした象徴がかえって色気を纏ったり、濃密な色気が象徴として世界を形作ったり、時には輝かしい光を放ったりもして、そういうのなんて特に面白いことだと思う。
僕たちが面白がって眺めているのは、あるいは楽しく生きていく心持ちのなかには、いつだってそんな美しいものがあるように思う。
そういうわけで、「実在性」というものをもっと良くしていこうっていうアプローチについてはもっと頑張ってほしいと思います。