【#シャニマスリプパ】桑山千雪に魅せられた🍙🦕へ【魔法のひととき】
こんにちは。
今年度から闇の魔術に対する防衛術を担当することになりました、講師のありれるれんです。
寒い日が続きますが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?
近頃は暖かい布団の中から出るのが辛い、そんなふうにお思いでしょう。
布団から出るほんの少しの間にでも、ご一読いただければ幸いです。
挨拶
先日開催されましたイベントコミュ『#283をひろげよう』の一環として、2022/1/8㈯に行われたリプライパーティーはいかがでしたでしょうか?
普段楽しく見ているだけだったアイドルからリプライを貰えるかもしれない……わくわくしますね。
この記事を見てくださっている貴方も、リプライが欲しくてツイートしてみたかもしれませんし、しなかったのかもしれません。
何せ、たくさんの人がツイートをしているのですし、リプライを貰えなくて心のどこかでがっかりするのが怖いのです。
それが理由でシャニマスが嫌だなと思ったりするのも怖い……そんなこわがりな優しさを持った貴方は、ツイートを送れなかったのかもしれません。だけど中には、リプライを貰えた幸運な貴方もいるでしょう。
ツイートをするときはどうでしたか?貴方はツイートするのが恥ずかしいと思うシャイなところがあったり、とにかくリプライが欲しくて頑張った可愛いところがあったりもしたでしょう。
「#283をひろげよう」というタグを検索してみると、今まで見ていたいつも通りの“Twitter”は、不思議な魔法をかけられて“ツイスタ”の姿を見せてくれます。
そんなツイスタにはアイドルだけじゃなく貴方達がいて、それぞれのどきどきやわくわくはもちろん、期待や不安でさえも素敵な世界の一部になって、シャニマスの世界を彩っている。
色んな貴方がいたはずです。
それでも
「桑山千雪」さんについてはどんな貴方の中にも印象に残っている。
桑山千雪さん……。
面白くて、可愛らしくって、不思議で……。リプパでそんな姿を見せてくれた千雪さんのこと、皆さんはきっと好きになりましたね?
貴方にとっても千雪さんは魅力的ですね?
貴方も一緒に僕と千雪さんの話をしてみませんか?
さあ
―――兼ねて恐れ給えよ。
本記事の趣旨
この記事は「#シャニマスリプパ」に喜んで参加した者、特に桑山千雪にホイホイ釣られてしまった愚か者への警告だ。
君たちは世間に有り触れた「魔法」に対する耐性を捨て去ってしまっている可能性が高く、その態度はSNSにのさばる有象無象の現代オタクそのもので、然るに男らしさに欠けていると言わざるを得ない。
本記事では桑山千雪の振る舞いに注目し、精神の健康増進を図ることで推し事の持続可能性の向上に資することを期待するものです。残りの動機はリプライ貰ったやつへの嫉妬だ!
おむすび恐竜の実例
まずは桑山千雪と関わった愚か者として最も有名な男、「おむすび恐竜」に注目する。
こいつは桑山千雪がメインMCを務める深夜ラジオ番組『パジャマ・ジャム・ジャミング』に、「いつも聞いてるよ、千雪」というお便りを送った男だ。
この男がやった振る舞いは何であるのか、まずはそれを理解するところから始めよう。
そもそも深夜のラジオMCに期待される能力が何であるかを、お前らは理解しているか?
深夜になっても眠らずに、友達と話すでもなく一人で起きて何かをしたり、しなかったりして、そしてラジオのチャンネルを合わす。……そんなこいつらは、バラバラだが、それぞれ全員孤独であり、孤独に対するゾルゲ(不安・関心)を抱いていると言っていい。
これを解消するために最もお手軽なのは、何かの対象とされることだ。つまり言及される・見られるといった何らかの行為の客体となることである。
ラジオの需要というのは、孤独に不安を抱えるこいつらを認識し、そしてこいつらを対象とした行為に及ぶことだ。つまりラジオ聴取者を客体化する主体であることへの需要である。
意味が分かるか?
要するに、寂しがり屋な有象無象のラジオ聴取者を可視化し、言及することがラジオの職務なんだ。
ここでようやくおむすび恐竜のお便り――「いつも聞いてるよ、千雪」――が如何様にしてクソであるかが明確にできる。
その前提のもと、ラジオ番組の運営主体である桑山千雪に対して送られた「いつも聞いてるよ、千雪」という言葉を見て行くと、非常に不躾な点が見られる。
まず、「いつも聞いてるよ」だろう。桑山千雪の番組『パジャマ・ジャム・ジャミング』とは、
おやすみなさいから始まり――
ベッドルームに立てこもるための魔法、
のような番組らしい。
桑山千雪の、蝶々やお花が似合うようなファンシーな少女趣味の世界観なのだ。このコンセプトとMCの桑山千雪がこのラジオ番組の主体である。
つまり、この番組を聴取する人間というものは、この世界観と桑山千雪という主体に客体化を求めていることが暗黙の了解となっている。
「いつも聞いてるよ、千雪」という一連の発言は、このファンシーな番組の主体と聴取者としての客体の関係を完全に踏み破った発言だ。
特に、「千雪」という呼び捨てが非常に良くない。名前を呼ぶという行為は何者かを客体化する際に行われる、最も基本的で強い行為だ。そのため人は人を呼ぶときに敬称を付け、例えば「〜さん」と呼ぶのだ。
そして、いつも聞いていることを伝えるためにいちいち名前を呼ぶ必要などなく、さらにその後に続く文章はない。
そのことからもこのおむすび恐竜(20)は桑山千雪を口説こうとするためだけの目的で――ラジオ番組の運営主体である彼女を自らの愛する人として客体化しようとする身勝手によって――お便りを送っていることが客観的に判断できる。(桑山千雪に愛される男性として客体化されたいという欲求が女々しく透ける情けなさを孕みつつのことであるが)
皆が怒るのは当然だ。私たちが聴いている番組は、「桑山千雪の深夜ラジオ『パジャマ・ジャム・ジャミング』」であり、「身の程知らずの独善的爬虫類による愛の告白」ではない。
そして、「いつも聞いてる」ことから、本来ならばコンセプトを理解していて当然であるため情状酌量の余地もない。
しかし彼女のファンシーな世界観は、この無礼を叱責することができるコンセプトではない。非常に難しい局面であるが、桑山千雪の手腕は鮮烈だった。
「わ、千雪って呼ばれちゃった。私の弟も呼び捨てにするよ。私も君の名前を呼ばせてもらうね。」(一部編集)
……この短い一連の流れは、逸った醜い愚か者に対してさえ同情を誘うほどに、立場を“理解”らせた。
まずは、聴取者の分際で客体化を試みたということが無礼で一般的でないことを「わ」と驚くことで簡潔に咎める。次に、年下かつ匿名の身の程は明確に自分よりも目下の存在であり、そんな存在の呼び捨てはその程度の発言でしかないことを突き付けた。
更に、名前を隠す臆病な匿名メールの中にあってさえなお雄々しく思われたい心と、それと同時に面白いと思われたいという女々しさの中で生まれた歪な名前である「おむすび恐竜」が、彼女の番組『パジャマ・ジャム・ジャミング』にも、彼女を口説く男にも到底相応しくないという事実を、ベッドで孤独にラジオを聴いている独り善がりの青年に叩き付けた。意趣返しだと言わんばかりの同じやり方で。
ファンシーなのは使われた言葉と声色だけだ。この激しい打擲は客観性を失った愚か者の自尊心を粉々に破壊した。
もう少し手心があっても良いはずだと僕が思うのは、きっと僕が男だからなのだろう。
#283をひろげよう〜単独投稿〜
そんな彼女はリプパにおいても一切容赦がなかった。この主体と客体の関係が、端的に言えば「私が上」で「お前らが下」であるという一貫した態度を示すだけでなく、そして自身を気持ち良く客体化するべきところで良くしろという命令――調教までも行った。
まずは『#283をひろげよう』のリプライパーティー以外、桑山千雪担当のツイスタ投稿を振り返ろう。
この夜、桑山千雪は一方的に行為を断行し、意見を待つことなどしなかった。彼女の投稿を遡ることで分かるのは、おむすび恐竜のようなオタクが彼女にとって不快な客体化を行うような隙をほとんど見せなかったことだ。
リプライ欄に出現した限界オタク達を指し、オタクは頻りに「おむすび恐竜だ」とはしゃいだが、その実、彼らは身のほどを知らずに桑山千雪に対して不快な客体化を試みたおむすび恐竜とは対象的に、彼女を褒め、あるいは彼女からの客体化を待って尻尾を振る、卑俗な限界おじさんだけだ。
特に投稿しなければいけない恒例の写真に「壁のひび」を選択しているところが強かだ。
写真というものは、否応なく様々な物が写り、当然ながらおむすび恐竜存在としては非常に客体化の機会を持てるものである。しかし、「壁のひび」は彼女自身が「忙しかったから」と気に留めなかったどうでもよいものと確認できるものである。
おむすび恐竜存在からの不躾な発言が行われたとして、桑山千雪とオタクとの間にある上下関係には響かない。
しかし、それだけでなく、写真には下腕からを写してもいる。おそらくそこは瑕疵のない自信があり、そこを褒めるという客体化は受けとってあげよう、という態度が見て取れる。
#283をひろげよう〜リプライパーティー〜
リプライパーティーは桑山千雪の魔性が牙を剝いた。
彼女の行為は、運営主体の己に対して身の程を知らずに客体化を試みるようなおむすび恐竜的オタク主体の排除から始まり、従順なオタクへの調教に発展した。
まず行ったのは千雪呼びの許容だった。
この「許可」は許可ではない。
この発言は牽制ですらない。この言葉により、桑山千雪を千雪呼びする行為は、否応なく桑山千雪の許可のもと行われたものになってしまったのだ。
この時点で、仮におむすび恐竜存在が「愛しているよ、千雪」とツイートしたとして、それは既に千雪呼びを許可されたことによる冗談の類だとして無力化されてしまうことになった。
また、その後に彼女はリプライを返し始めたが、その選出においても、「千雪」呼びのリプライなどは選ばず、「千雪さん」と呼ぶ、自分から空気の読めるツイートのみを選出する。そして単に選ぶだけでなく、その媚態が期待する以上の印象的な客体化を与えた。
そして抜かりなく、リプライした以外のツイートを見ていることを示し、「千雪」呼びのツイートを無視していることを千雪呼びの者に対して言外に示す。
そして極めつけに「千雪」呼びのツイートを選出した。
読んでるお前は思ったかもしれない。千雪呼びでもいいんじゃあないか、と。その通りだ。桑山千雪が徹底しているのは、「私が上、お前は下」という躾である。
上のリプライ対象のツイートを見れば分かるが、リプライを受け取ったこの羨ましい人間がしたのは過剰な回数の千雪呼びだ。
当該ツイートに含まれるのは、彼女を客体化せんとする不躾なおむすび恐竜性ではなく、客観的に明らかに構われたがっているイタズラ少年的客体である。
千雪呼びの反面、彼は尻尾を振っているのだ。そしてそれに対する彼女の反応は「呼びすぎだ」という甘い鞭である。
「求められるアイドル」という強い立場を存分に活かし、自分に忠実に尻尾が振れる利口なオタクには印象的な言及の飴を、出来の悪いオタクには気持ちの良い鞭をくれ、どうしようもない駄犬は無視の冷たい檻に閉じ込める……昼間に公然と行われたオタクへの調教は成功してしまった。
ここらで紹介を終えるが見返すが良い。彼女からのリプライを受け取ったオタク達が、いかに自己を卑下し、彼女に諂い、媚び切っているのかを。
兼ねて恐れ給えよ。
彼女がかけている魔法は、綺麗な女の先輩に「可愛い顔をしているね」と言われたニキビ顔の少年が客観的な醜さを忘れて自惚れきってしまう、そんな魔法だ。
魔性の女とは
お前は、もしかして、「桑山千雪に支配される快楽に浸り切って、誰から見てもおかしくなっても、自分が幸せなら良いんじゃないか」と、そう思ったんじゃないか?
答えは否だ。断言して良い。
桑山千雪の魔性は、自分の幸福のために作った自分の世界にお前らを組み込んだわけだが、彼女はいつか自分の幸福のためにその世界ごとお前を捨てるところにある。
ラオウに見る男らしさについて
『北斗の拳』のラオウで例え話をしよう。
ほとんどの人が知るであろう世紀末覇者にして拳王であるが、彼は愛に関しては恵まれない孤独な男だった。ここでいう愛とは承認であり、客体化であった。
その強さ故に、一子相伝の北斗神拳伝承者にも、愛した女にも選ばれなかった。そして選ばれなかったことを悲しみ、しかし媚びることを厭うた男であった。
彼は武によって世界を束ね国を興すが、愛した女はそれでもラオウを愛さない。女は代わりに命を奪うことを許した。
女はその身の全てを委ねるが、「殺す女に見られたままなのは辛いだろう」と背を向けた。
そしてラオウはようやく気付いたのだ。彼が欲しかったのは愛したこの女ではなく、愛したこの女から愛されるという客体だったのだと。
そしてラオウは、男らしく生きる男の哀しみ知り、自らを崇拝して距離をとる配下ではなく、むしろ目の前に立ちはだかる強敵、ケンシロウとの戦いに赴き―――そして戦いに敗れたラオウは敗北者となった。
しかし、哀しみを知った彼は最期に宣言するのだ。
「我が生涯に一片の悔い無し」と。
そして自ら命を絶ったのだ。
自決という行為には、決して媚態が含まれない。なぜならその行為が行われると、行為者は死ぬからだ。後にある何かを見返りに行うことはできない。
ラオウは命をかけて、自らの、ついぞ愛されることもなく勝つこともできなかった惨めな生き方を肯定したのだ。
ではそれは何のために?
それはこれまでラオウ自身に憧れたかつての配下のためだ。
愛を知り哀しみを知ったラオウは……客体化されることのない男らしい人生の哀しみを知ったラオウは、その哀しみを知ったがゆえに、彼自身が自分の人生を悔やんでしまえば、これまで自分に憧れ客体化されてきた配下達がどれだけ深い絶望に落ちるかをも知ったのだ。
だからラオウは命の、全てを懸けて虚勢を張った。男らしく生きた人生の、男らしさに憧れ男たちの、ついぞ手に入らなった愛のために―――。
かっけえぜ……!!!ラオウ!!!!
世紀末覇者・桑山千雪
さて、桑山千雪は女だ。
なぜ男が男らしくなければいけないか分かるだろうか?それは単に男らしい方が格好良いからではない。
男の場合は男らしくなければ、つまり主体であるために競争して、努力しなければ何も残らないからだ。
では女どうだろうか。女は違う。むしろ客体になることに徹しても、動物としての大きな成果である子供を産むことができる。
おむすび恐竜を始末したコミュを振り返ろう。
当該コミュでは、その後に彼女が作った手芸品がオークションにかけられる。そしてその入札をシャニPは肯定してしまったのだ。
このとき桑山千雪の、客体としての自分を手に入れんとする様子への迷いは消えた。シャニPに肯定されることによって。その結果、先日の調教は始まったのかもしれない。
そして彼女は女だ。ラオウではない。男らしい男の哀しみを知らず、そして知る必要もない。そんな女がオタクを振り回し、従えた責任として主体であることを全うするだろうか?
近くにいる高身長で優しくて、ここまで彼女を導いた信頼があって、魅力的な男に言い寄られたとして、彼女がそれを断る可能性があるだろうか?
ラオウは「誰を愛そうがどんなに汚れようが構わぬ」と叫んだがついぞ愛した女の全てを奪うことを躊躇った。しかし彼女は言っている「私は私の道を行くだけ」、「私は遠慮はしない」と。
桑山千雪は“やる”だろう。
愛し始めたときの彼が、彼女の手で変わっていこうとも、それでも変わった先の彼を愛することができる。そして全てを手に入れた後で、「心こじあけちゃいました♪」と言い放つ!…………それだけの“スゴ味”があるッ!!!
そしてその後には彼女の幸福な世界観ごとオタク達は置き去りにされるだろう。誰に顧みられることのないままに。
「魔性」の真に魔性たるところは、魔法をかけた相手に二度と魔法をかけないことなのだろう。
そしてその無責任を女故の魔性により桑山千雪は実現するだろう。ラオウでさえできなかったその残酷は世紀末覇者の名に相応しい。
客体化された存在が二度と客体化されぬ絶望とは、つまり、敗戦国の将兵の絶望であり、子を失った母の絶望であり、寝取られたコキューの絶望であり、夢に挫折した絶望なのだ。
一時限り――桑山千雪に狂った一時限りであるとはいえ、オタク達は恐れなさい。
まとめ
1. 桑山千雪を呼ぶときは
2. ラオウはカッコいい!
3. リプライ貰ったからっていつまでも調子乗ってんな!ばーか!あーほ!どじまぬけー!
以上!