【255日目】ぐるぐる
March 26 2012, 7:07 AM by gowagowagorio
10月12日(水)
ナツモが帰宅したのは、ちょうどエリサがミノリを連れてフォーラムへ出かけようとしていた時だった。だから、ナツモが「もっちゃんもいきたい」と言って、カバンを放り投げたままエリサに付いて行った時、しめた、今日はラクができる、とほくそ笑んだ。
しかし、それは間違いだった。
確かに、皆がフォーラムに行っている間は自由の身だった。僕はゆっくりと、現在行われているクイックシルバープロフランスのウェブキャストを堪能する事ができたのだ。
玄関のドアが騒々しく開いたのは18時過ぎ、ちょうど、これからセミファイナルがスタートする、という最高の場面だった。
まあ、仕方ない。きっとナツモは、機嫌良く帰って来て、フォーラムであった出来事を僕に喋りたいだろうから、それは聞いてやらないとな。そして、気が済むまで話を聞いてやったら、さあご飯を食べよう、とナツモをダイニングテーブルに着かせるのだ。
僕はそんな風に頭を切り替え、ナツモがスタディルームに入ってくるのをじっと待った。そしてナツモは予想通り、スタディルームに飛び込んで来た。
しかし。
「ぷーるいくー!」
ナツモの口から飛び出したのはあまりにも予想外の言葉だった。
「へ?」
「ぷーるいくー」
「プール?」
「うん」
ナツモの宣言は、いつだって突然だ。こちらの計画などお構いなしである。それはこれまで何度も経験して分かっているのだが、その突飛な行動には分かっていても付いて行けない。
「何言ってんだよ、もうご飯の時間だからダメ」
「イヤだ!いくの!」
「ダメ」
「いーく!」
「・・・」
こうなるとナツモは強情だ。昨日のバトルで僕の方が精神的にくたびれていた。仕方ない。ナツモの勝ちだ。
「・・・じゃあ、20分だけ」
それは、18時半までに上がれば良いだろうと計算して提示した時間である。決して長い時間ではないが、飽きっぽいナツモには充分な時間だろう。僕としてはそれで丸く収まるものだと思い込んでいた。
しかし、ナツモの反応は違った。
「20ぷんイヤだ!たくさん!」
ナツモは時計を読む事がまだできない。コイツ、20分がどれぐらいの長さかも知らない癖に、それじゃ短いだと?
僕としては最大限譲歩し、好意でプールを許可したというのに、その時間に難癖を付けられ、一瞬で頭に血が昇った。
「ダメ、20分!」
僕がムキになって声を荒げた瞬間、ナツモが、キレた。
ナツモは鼻の頭に皺を寄せて歯をむき出し、突然、右腕をすごい勢いでグルグル回し始めた。まるで、ホームへ突っ込めと指示する三塁コーチのように。
「もっと、たくさん!もっととけいが、こうやって・・・ぐるぐるぐるぐるするまでたくさん!」
ナツモは金切り声を上げながら、人差し指で空中に円を描いている。それだけ見れば滑稽な動きだが、僕はもう頭に来ていたから全く面白く感じられない。
「うるさい!じゃあ、もうずっとプールに行ってろ!プールで寝ちゃえ!」
もちろん、この後ナツモはびーびーと号泣し始めるのだった。
5分ほどしてクールダウンした僕は、まだ泣き続けているナツモに声をかけた。
「わかった、じゃあ、30分な」
ぴた。
僕が30分と言ったとたん、ナツモはけろっと泣き止んだ。そして自分の部屋のクローゼットから水着を引っぱりだして黙々と着替えだした。コイツは20分と30分の違いがどれほどか分かっているのだろうか。あんなにグルグル腕を回していたヤツが、ほんの10分程度の延長で納得するとは思えないが、機嫌を直したのならまあ良い。こちらとしても10分程度の遅れなら、その後の生活習慣に影響はない。
「おとうちゃん、30ぷんはながい?」
「ああ、すっごくながいぞー・・・」
ナツモは玄関を出る時に、ミノリを連れて行くと言って再びゴネだしたが、さすがにそれは言下に却下した。ナツモはまた少し泣いたが、僕が構わずエレベーターに乗り込むと、あきらめて付いてきた。プールに出てからはすっかりご機嫌である。
深いプールで僕にナツモを真上に放り投げるよう要求し、その勢いで水中に潜ると、僕の水着のヒモを緩めて脱がそうとする。それを飽きずに何度も繰り返すのだ。
「こらこら、もっちゃん、ヤメロ!」
「ひひひ!」
まったく、この下ネタ好きはどうしたことか。
結局ナツモは「さむいさむい」と言って、たった15分で自らプールを出た。
そうなのだ。ムキになって頭ごなしに時間制限しなくても、この夕方の時間帯、しかも雨期で冷たい雨が降った後のプールなど、ナツモが長続きする訳がないのだ。今日も僕自身に少々余裕が足りなかったと反省する。
−−
夕食時。ナツモが得意げに話しかけてきた。
「ご、ご、ごはん、ごりお」
「へ?」
「ひひひ、だじゃれだよ」
「ダジャレ??どこが?」
「おとうちゃん、もっちゃん、だじゃれいっぱいいえるとおもうよ」
「そうなの?」
「もも、もっちゃん。ほらね?」
「・・・」
あまりに突然の事で反応できなかったが、どうやらナツモは駄洒落の定義を履き違えているようだ。二つの単語の頭の文字が重なっていれば、それが駄洒落だと思い込んでいるのだ。先日の、「ズーでずーっといい子だった」というハイセンスな駄洒落は完全にまぐれだったと言う事が、これで証明されてしまった。
食事中のおしゃべりが過ぎて、なかなかご飯を食べ終われないナツモは、溜め息混じりに呟いた。
「きょう、ぷりきゅあみれなかったねー」
通常、20時以降はDVD鑑賞を許されていない。ナツモは時計が読めないながら、プールに行った分、時間が遅い事を肌で感じているのだろう。
しかしその呟きは、カラッと諦め良さげな色を滲ませる事によって、僕から許可を引き出す、そんな計算高さを感じさせる一言だった。
そして、僕はまんまとそれにはまる。
「べつに、早く食べ終われば観ていいよ。ゴリラまでに食べ終わったら、チンパンジーまで観ていいよ」
「ごりら?」
「そう」
素直に食事を平らげたまでは、良かった。
しかしナツモはチンパンジー、つまり20時半になっても自らDVDを止める気配はなく、ダラダラとだらしない格好でプリキュアを観続けた。
仕事から帰宅したアキコがドアを開けても、うんともすんとも反応しない。その態度が、僕とアキコの両方を怒らせた。
「おい!約束しただろ!チンパンジーまでって!」
「だって、みたい!おわってないから!」
確かにプリキュアのDVDは映画版だから、約1時間のストーリーになっている。30分ではちょうど盛り上がってきた所で終わりなのだ。ナツモの気持ちは分かるが、約束は約束である。
「もうね、お約束が守れないなら、プリキュアはバビーに返すからね!いいの?」
アキコが声を荒げる。ああ、これは泣くな。僕は成り行きを見守った。
「・・・」
しかしナツモは、予想に反して泣き出すでもなく、イヤだと喚くでもなく、アキコから問われた途端、中空を睨んで思案し始めてしまった。まるで、うーん、約束を守れる自信はないなあ、と考えているように見える。
「・・・守れないんかい!」
拍子抜けして怒りは去り、僕は思わずナツモにツッコむ。
しかし、逆に考えると、これまでのナツモならこの場面では脊髄反射的に「イヤだ!」とか「ダメ!」と叫んでいる所だ。そう思うと、この態度は精神的な成長の現れと言えなくもない。