【198日目】曖昧 My Identity


August 25 2011, 9:53 PM by gowagowagorio

8月16日(火)

先ほどから視線は感じていた。
プールサイドには誰もいないから、建物の中からの視線だろう。

僕はパドルを続けながら、プールサイドに面した2階の部屋のバルコニーを確認した。案の定、バルコニーのガラス窓には、僕を好奇の目で見つめる幼い二人の子供の姿があった。プールでパドルをしている姿を珍しがられるのは今に始まった事ではないので、特に気にはならない。

しかし、あの部屋は確か、STK家が引っ越した後、STK家の知り合いの日本人が入居したはずだ。その後、数ヶ月に渡って人気がなかったため、てっきりその知り合いは、あの部屋に住む事なく手放して、今は空き部屋になっているのだとばかり思っていたが。僕を眺める子供たちの姿は日本人に見える。遅ればせながら引っ越して来たのだろうか。

あれこれ詮索するうちに、バルコニーのカーテンは閉められてしまった。

子供たちの事をすっかり忘れていた40往復目、プールサイドに子どもたちの声が響き渡って来た。あの子たちだ。子供は全部で4人いるが、全員が兄妹ということではないだろう。やはり日本人のようだ。

今日のノルマをこなした僕と入れ違うように、子供たちがプールに飛び込む。ボードをしまい、その場を立ち去ろうとする僕に、突然声がかけられた。

「ハロー!」

思わず振り返ると、4人のうちの一人の男の子が、屈託のない、にこやかな笑顔を僕に向けている。

随分社交的な子だな、と感心しつつ、なぜ、僕は今ハローと声をかけられたのかを考える。男の子はやけに自信たっぷりにハローと言って来た。日本人に見えるけど、もしかしたらシンガポーリアンかも知れないから、とりあえず英語で話しかけとこう、という感じではなかったのだ。ハナから外国人と決めつけて話しかけて来た、そんな感じだった。

・・・やはり日本人に見えない、ということか。

僕は子供たちが日本人だということに気付いたのだから、そのまま日本語でこんにちは、と言えばよかったのかも知れない。しかし、何故か、僕の口から出たのも「ハロー」という言葉だった。すると、なんとなく悪戯心が芽生えて来た。

「フロムジャパン?」

「イェー」

「アイシー、シーユー」

ボロが出ないよう、短い言葉でやりとりを完結して手を振ると、男の子は何の疑いも持たず、「シーユー!」と手を振り返して来た。

−−

帰宅してきたナツモは、完全に楽園モードから通常モードへ切り替わり、それと共に我が儘も通常営業状態となった。

「おかいものいこうよーよー」

「は?なんで?」

「ぷりんせすのしーるかいたい・・・」

「え?何言ってんだよ。買わないよ」

「イヤだ!かって!」

「今日は買わない。だって、こないだ買ったばっかだろ」

「きょうがいーの!」

僕にしてみれば、酷い事はまったく言っていないつもりだが、ナツモは大粒の涙を流し始めた。困惑した僕は、諭すように語りかける。

「おいおい、なんで急にそんなに欲しくなったんだ?もっちゃんがプリンセスが好きなのは知ってるけど、昨日までそんなにシールが欲しいなんて言ってなかっただろ?なんで急に欲しくなったのか、理由を述べよ。120字以内で」

問い掛けるうちに、どうにも腑に落ちなくなってきたため、台詞の後半はやや投げやりである。

一瞬泣き叫ぶのを止めたものの、もちろん、ナツモは理由など答えられる訳がない。

「もっちゃんは誕生日も終わったし、特別いい子でいた訳でもないのに、それでシールなんかほいほい買ってもらえる訳ないだろ?」

僕は怒鳴っている訳ではないし、決して理不尽な事を言っていない。しかし再び泣き出したナツモの声はどんどんエスカレートしていく。

「・・・じゃあ、プールに泳ぎに行こうか。せっかく泳げるようになってきたし」

「イヤだっ!シール!」

ナツモの目先を変えようと話題を変えても効果がない。業を煮やした僕は、ナツモに提案を持ちかけた。

「それじゃあ、どうしたら買ってもらえるか、一緒に考えてみようよ。そうだな・・・たとえば、今日プールでビート板を使って、顔つけてバシャバシャ進めたら買ってもらえる、とかね」

あくまで例えば、という話をしていたつもりなのだが、ここでナツモはぴたりと泣くのを止めた。それどころか、既に少しニヤつきながら着ているワンピースを脱ぎ捨て、自分の部屋へと消えて行った。泳ぐ気まんまんである。

むしろ、「しめた、おとうちゃんめ、まんまとかかったな」とほくそ笑んでいるようにさえ見える。

僕は僕で、ナツモの予想以上の食いつきに多少たじろいだものの、先日の急激な進歩を見る限り、ここはエサをぶら下げてでも集中的にプールに入って泳ぎを会得してしまうほうがいいと考えた。泳げるというのは、万が一の時に生き延びるためにも大切なスキルだから習得が早いに越した事はないのだ。

リビングで退屈そうにしていたミノリも抱えてプールへ向かう。ミノリもプールが好きなのか、専用の浮き輪に収めて水に浮かべておけば大人しいため、陸上より遥かに面倒を見るのが楽なのである。

プールサイドへ降り立つと、先ほど会ってから3時間は経っているというのに、まだあの子どもたちが泳いでいる。

ミノリを水に浮かべたところで、先ほど僕に声をかけてきた男の子と目が合った。

「よっ」

考え得る限り最も短い日本語で声をかけたが、男の子はすぐに反応した。

「えっ?日本人なんですか?」

「そうだよ。日本人だよ。さっきは英語で話しかけられたから、英語で答えたけどね」

「そうなんだ」

ここで、男の子は他の子供たち、そして、母親だろうか、一緒にプールサイドにいた女性を振り返った。

「ねーねー!日本人だったよ!日本人ぽくないけど、日本人だった」

「へー!日本人じゃないかと思った」

「僕が英語で話しかけちゃったから、英語で話したんだって」

「日本人だったんだね」

ヒソヒソとも言えない声で、僕をネタに盛り上がる子供たち。自分が蒔いた種ではあるが、そんなに驚かれると少々複雑な気分である。一体僕の事をナニジンだと思っていたのだろう?

僕が睨んだ通り、子供たちのうち二人はあの部屋の住人で、STK家の知り合いだった。もう二人はその友達で、一緒に居た女性も、住人ではなく、友達の母親と言うことだ。

なんでもシンガポールへは会社を経営する親のビジネスのために来ているらしく、普段は大分県別府で生活しているらしい。

僕が日本人と判るや近づいて来た7歳の女の子が、聞いてもいないうちからあらゆる情報を共有してくれた。

「ママのオシゴトできているから、わたしはオマケなの」

コノミちゃんと同級生だというこの女の子、リンコちゃんは、なかなかのおませさんのようだ。マシンガンのようにしゃべり続け、ナツモにトレーニングを付けるヒマさえ与えてくれない。

が、やはりここは子供同士。

ナツモは最初こそ照れているのか、リンコちゃんのしゃべりに圧倒されているのか、まったく口をきかなかったが、15分もすると、勝手に泳ぎを教えてくれるリンコちゃんの言う事を聞くようになり、本来今日の目標だった、「ビート板を使って、顔をつけてバタ足」を遥かに凌駕して、ビート板なしでのバタ足を、不格好で短い距離ながら、成功させてしまった。これには僕も舌をぐるぐる巻くしかない。

確かにエサで釣ってでも集中的にやらせよう、とは思っていたが、ここまで吸収が早いとは。

想定外のナツモの成長のおかげで、僕は夕食後、高島屋にプリンセスのステッカーを買いに行く羽目になった。4歳児相手でも約束は約束である。これを親の都合で簡単に反故にすることは許されない、と僕は考えている。

ナツモの方がむしろ意外だったようである。

「なんできょういったの?」

「約束だからだよ」

「すてっかー、きょうがいいきょうがいい、って、もっちゃんがないてたから?」

僕は思わず苦笑する。半分はそうだけれども、重要なのはそこではない。

「ちがうよ、プールで今日ちゃんと泳げたからだよ」

「そっか」

しかし、難しいのは、一度エサを与えると、それが当たり前だと思われてしまう可能性がある、という事だ。案の定ナツモは、プリンセスのステッカーを手にしたそばから、

「それじゃー、あしたは、こーんなにもぐれるようになったら、はーとのきらきらのやつ、かおうかね」

などと張り切っている。僕は慌ててそれを制した。

「そんなぽいぽい買わないよ!・・・次はもっと難しい事ができるようになってからね」

「なんでー?もっちゃん、もうできるよ?」

さて、これはどう説明すれば良いのだろうか。僕は、もしかしたらナツモに大きな誤解を与えているかも知れないという一抹の不安を胸に抱えて、高島屋から帰宅するのだった。

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