【243日目】バフー
February 14 2012, 7:14 AM by gowagowagorio
9月30日(金)
ミノリを入浴させた後のことである。
ミノリの身体をタオルで拭き、ベッドに転がしてオムツを装着し、服は着せずに僕もベッドに寝転がった。本来なら服まで着せて休憩すべきところだろうが、いかんせんその程度の事ですらヤル気が起こらない。僕はダラけた生活をするとダメになる人間の典型なのだろう。
ミノリは明らかに遊んで欲しそうだ。上半身はだかんぼのままで僕のお腹に乗ってくる。
正直なところ、その時の僕にはミノリの相手をして満足させる自信も気力もなかった。こういう時に赤ん坊と上手に遊べる人間を僕はリスペクトする。
エリサなんかもそういう類の人物だ。
ミノリに服を着せてリビングに連れていけば後はエリサが何とかしてくれるだろう、という甘えた考えが頭をもたげるが、朝寝をさせるまでが僕の担当という暗黙のルールがある。
さて、どうやってミノリの相手をしようか、のらりくらり考えていると、ふと、ベッドの上で壁に立てかけてあるマットレスが目に入った。イケアで購入した厚手の物である。
「ムニー、ほら、これ柔らかいよ。バフー!ってやってごらん。痛くないから」
僕はベッドの上に膝立ちして実演して見せた。手を広げて勢いよく壁に立てかけたマットレスに倒れ込むのだ。
僕としては、こんなのにミノリが興味持つはずだいだろうなあ、と思いながらの実演である。もっとマシな相手の仕方があるだろうに、気力がないために半ばヤケクソだ。
ところが、マットレスに倒れ込む僕の姿を見たミノリの目が、明らかに輝いた。そして、自らマットレスの前でぎこちなく立ち上がると、僕がやって見せた通りに、バンザイしながら勢いよくマットレスに顔面から倒れ込んだ。
おお、こんなことが面白いのか。赤ん坊には何が響くか分からないものだ。
僕は予想外に食いついて来たミノリが忠実に僕の動きを真似するのを不思議な気持ちで眺めていた。
「ね?おもしろいでしょ?バフー。もっかいやってみ、バフー」
あっという間に、この遊びの名前は「バフー」になった。
ミノリは「フフー!フフー!」と興奮気味の笑顔を見せると、マットレスに手をついて腕立ての要領で元の位置に戻り、再びバンザイしながら、より勢いを付けてマットレスに身体をダイブさせた。
そして身体を起こしてもう一度。
しかし、今度は動きにアレンジを加えてきた。マットレスにに身体を預けるだけでは飽き足らず、その反動を利用して、仰向けに、柔道の後ろ受け身の要領でベッドに倒れこんだのだ。
「フフー!フフー!」
ミノリはそれが面白くて仕方がないらしく、3回、4回とバフーから後ろ受け身という動きを繰り返す。
受け身と言うと、後頭部を保護するため、頭を内側に入れて行うものだが、ミノリのそれは、むしろ頭を後ろにのけぞらせて倒れ込む。
まあ、柔らかい場所でやっている分にはいいか。あんなに楽しそうだし。僕は微笑ましくその光景を眺めていた。
10回ほどバフーし終えた後、ミノリはおもむろにベッドから降りた。
さすがに満足したか。
僕はベッドの上からミノリを見送るつもりだった。大方、ミノリはそのままエリサの所にでも遊びにいくのだろうと思ったのだ。
ところが、後ろ向きにベッドから降りたミノリは、その場でバンザイをした。
・・・ん?
僕が不可解に感じると同時に、ミノリはバンザイしたままベッドに向かって倒れ込んだ。
これは・・・バフーの続き?と、言う事は・・・
マズい。
僕は考えるよりも先に飛び起きてミノリに向かって手を伸ばした。ミノリの後ろは硬いフローリングなのだ。
はたして、僕は、後ろ向きにのけぞったミノリの肩を間一髪で押さえる事に成功した。
ふう、危ない所だった。
ミノリはまだ、危ない事とそうでない事、何をしたら痛い思いをするか、という知識に乏しいのだろう。あまり痛がりやになって引っ込み思案になってもらいたくはないが、少しずつ学習してもらわねば、危なっかしくて目を離せない。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ミノリは相変わらず「フフー、フフー」と笑っている。
まったく、オレが助けなかったら怪我するところだったんだぞ。
ミノリは僕の心配をよそに、激しい運動で喉が渇いたのか、出窓に置きっぱなしにしてあったマグを取りに行き、ストローから勢い良く水を口に含むと・・・何故かそれを飲み込まずに、笑いながらダーっと吐き出した。
「フフー!フフー!」
ミノリはその遊びも気に入ったのか、2回3回と繰り返し水を吐き出している。確か、昔志村けんがドリフでこんなギャグをやっていたような気がする。ミノリも、そのギャグがよく似合う、味わい深い顔をしている。
−−
ミノリ、そしてエリサとの三人での生活も今日で5日目を迎えた。
家の中には三人の人間がいるのだから物理的には寂しさなど感じる訳ないのだが、どうにも孤独感が拭えない。
この寂しさは一体何処から来るのだろう、と考えてみた。そして行き着いた結論は、この五日間、まともな会話をしていないから、という事である。
もちろん、ミノリに話しかける事はあるが、ミノリからしっかりした日本語が返ってくる事はない。会話としては一方的なコミュニケーションでしかない。エリサとも、決して流暢ではない英語で必要最低限の事しか話さない。
僕はきっと会話に餓えているのだ。5日間もまともに人と会話しないなどという生活は、振り返ってみると実は今まで一度もなかったかも知れない。
こうして見ると、アキコは当然の事として、まだ日本語が未熟なはずのナツモとの会話も充分に僕を満足させてくれる知的エンターテイメントとして成立しているのだなと改めて驚かされる。
アキコとナツモ不在の生活、残り2日。