【246日目】Hunger is the best sauce.
February 24 2012, 6:43 PM by gowagowagorio
10月3日(月)
妙に爽やかなノキアケータイのデフォルト着信音が暗がりに響き渡る。
誰だよ、こんな時間に。
昨晩ベッドに入るのが遅くなった僕は、半分夢の中で舌打ちしていた。しかし、再び眠りに引きずり込まれる寸前で電話の主に思い当たって跳ね起きた。電話が切れる前に辛くも通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「着いたから、下まで荷物取りに来てもらっていい?」
アキコとナツモの帰国である。
・・・いや、母国である日本からシンガポールへ戻って来たのだから、この場合「帰国」と言うのは正しいのだろうか?
寝ぼけ眼を擦りながらロビーへ降りると、アキコが信じられないぐらい大量の荷物をタクシーのトランクから下ろしているところだった。
僕の姿をみとめたのだろう、タクシーから降りてきたナツモが一目散に駆け寄ってきた。僕の足元で両手を広げて見上げて来るナツモを抱き上げてやる。
「一週間ぶり」は「空腹」と同じぐらい最高の調味料だ。ナツモの頭のニオイを胸いっぱいに吸い込む。久しぶりに見たナツモはなんだか髪の毛が伸びて見えた。
−−
いつもの事ではあるが、自ら詰め込んだ過密スケジュールによって体調を崩した上に、エコノミーでのオーバーナイトフライトという試練を乗り越えて帰ってきたアキコはいささかグロッギーのようだった。今日ぐらい会社を休めばいいのに、とも思うのだが、そうもいかないようである。
対照的に、ナツモのテンションが異様に高い。一週間ぶりの挨拶代わりに起きてきたミノリにのしかかると、ミノリに抱きついたまま叫ぶ。
「ぺらもしゅうぇー!しょーしぇしゃん!」
・・・なんだそりゃ。英語ではない。もちろん日本語でもない。言うなれば、解読不能の「ナツモ語」だろうか。
こうしてアキコは会社へ、ナツモは学校へと出かけて行った。一週間ぶりの再会を噛み締める間もなく、いきなり日常へ強制リセットである。まったく、長旅をしてきた二人よりも、むしろ僕の方の気持ちの方がついていかない。
学校から戻ってきてもナツモに疲れている様子はない。望む所だ。僕としては一週間ぶりのナツモだから、新鮮な気持ちで向き合える。どんなリクエストにも応えてやる体勢だ。
「もっちゃん、プール行く?」
「ううん、ごほんよむー」
「・・・そっか」
こちらのやる気があっても、それをナツモが汲み取ってくれるとは限らない。
日本でバビーに買ってもらったのだろう、ナツモは数冊のディズニーアニメの絵本をリビングに持ち込むと、その中から「美女と野獣」を選んで僕に「これよんで」と手渡してきた。
僕がそれを一度読み聞かせてやった後、今度は「もっちゃんがよむ」と言う。ナツモに絵本を手渡し、それを何とはなしに見守る。
「おー、とー、うー、さー、んー・・・おとうさんだって」
僕は少なからず驚いた。一週間日本にいたから、という訳ではないだろうが、ナツモの読書力が飛躍的に向上しているのだ。以前は、平仮名を覚えたてだったせいもあり、そこに書いてある事を「単語」ではなく「文字」として認識するのが精一杯だったナツモだが、いつの間にか単語を拾えるようになってきている。文字を読む速度だって大分上がっている。
ナツモが僕を驚かせたのはそれだけではなかった。
本を読む事に飽きたナツモは今度こそプールへ行きたがった。まるまる一週間泳いでいなかったから、ナツモが再び水に慣れるのには少し時間がかかるのではないか、僕はそう考えていた。しかし、実際にはまったく正反対の事が起こったのである。
久々にプールへ飛び込んだナツモは、まさに水を得た魚のように次から次へとこれまで見せた事のない動きを見せた。まず、ゴーグルなしでも水中で目を開けられるようになった。
僕が指示した訳ではない。
「みてみてー、すいちょうめがねしないでおめめあいてるよー」
と言いながら、突然自分でやりはじめたのだ。加えて、水に身体を委ねて浮かぶ事ができるようになった。それに伴い、ケノビらしきものもできるようになった。
そして、深い方のプールで、僕が全く支えていなくても、水面に首から上だけを辛うじて出し、犬掻きで横方向に端から端まで移動できるようにまでなった。ぱっと見は溺れかけているようにしか見えないが、犬掻きで進むナツモの顔には満面の笑みが広がっている。
旅は人を成長させるようである。
二人して冷えた身体をバスタブで温めていると、ナツモが目を輝かせながらおもむろに口を開いた。
「ねえ、おとうちゃん、きょうもっちゃんね、わるいことしてないし、いっぱいおよげたから、あした、シールかってね」
今の僕はかなりガードが甘くなっている。何しろ一週間ぶりの可愛い娘なのだ。
それにナツモの言う通り、今日のナツモの成長ぶりは目を見張るものがあった。僕はほとんど「いいよ」と言いかけたが、すんでのところで思いとどまった。
「ダメダメ、前も言ったろ?次にシールを買ってもらえるのは、ちゃんと顔を水につけて端から端まで泳げたらでしょ」
「えーなんでー?」
一応渋ってみせるナツモだったが、さほど食い下がる事はなかった。それにしても恐ろしいのは、ナツモが僕の機嫌が良いのを見越して、シールの購入をかけあってきた事である。
ミノリも負けてはいなかった。
お姉ちゃんが帰ってきた瞬間、日記の主役を取られてたまるかとでも言わんばかりに、今日、初めて掴まり立ちではなく、完全に座った状態から何にも手をかけずに直接立ち上がり、そのまま10秒以上キープしてみせた。
我が家に活気が戻ってきた。やはり、よくも悪くもナツモは我が家のムードを決める中心人物なのだ。
−−
ところで、アキコが日本で買ってきたお土産がある。耳掻きである。
アキコはちょっとした耳掻きマニアだ。ここまで耳掻きの道具に拘りを持っている人にお目にかかった事がない。買ってきた耳掻きの先を僕に見せながらアキコの講釈が始まる。
「この先端のフォルムと柄のしなりが重要なんだよね」
今回買ってきたものは木製のものだったが、本来は「竹がベスト」だそうだ。しかし、竹でいいフォルムのものが見つからなかったため、「仕方なく木の素材のものにした、ただしフォルムは最高」と言う。この耳掻きだと、「奥まで攻められる」らしい。「耳のカーブにフィットしていく感じも最高」との事だ。
早速、その最高の道具で僕の耳を掃除してもらう。確かに、かなり奥まで攻め込まれても痛みはなく、棒の先が耳の内壁をコリコリと刮ぐ感触が心地いい。これはさぞ大量の耳クソが採取できる事だろうと思ったが、残念ながら期待したほどの収穫はなかった。
けっこう溜めたつもりだったのだが。歳のせいで代謝が悪くなったのだろうか。
がっかりする僕を尻目に、アキコは続けてナツモを自分の膝に呼んだ。しかし耳掻きが大嫌いなナツモはなかなか寄り付いて来ない。
「これは新しいから痛くないんだよ、だからおいで!」
アキコが無理矢理ナツモを押さえつけるが、ナツモは棒の先端がちょっと耳の奥に触れただけでこの世の終わりかと思うほど泣き叫ぶ。
それでもアキコは、全面的に身を委ねたはずの僕の耳からよりも多くの耳クソを、ナツモの耳から掻き出した。
耳掻きを終えたアキコがナツモに尋ねる。
「一週間、おとうちゃんに会えなくて寂しかった?」
「うん・・・えーと、ポリポリとか」
そうかそうか、それがたとえポリポリの道具としてだとしても、僕がいなくて寂しいと思ってくれるなら構わない。僕は一週間分のサービスのつもりでナツモの背中を掻き始めた。
しかし、さすがに疲れていたのだろう、ナツモはポリポリ開始2分で深い眠りに落ちた。
ナツモが眠ってしまった後、珍しく僕の母親からスカイプに入電があった。アキコが無事に到着したかどうかを心配しての事だろう。
今回のアキコの来日は、ナツモの面倒を見るというミッションがあっただけに、僕の母親にとってもハードなものだっただろう。
先日もスカイプを通してその様子を垣間見たが、何しろナツモのあの傍若無人ぶりである。年老いた母親はさぞかし精神的に削られたに違いないと危惧していた。
ところが意外にも、今日スカイプの画面に映った母親に疲れた様子は見られなかった。よくよく尋ねると、どうやら僕の母親は秘策を発見したようだ。
「まー、とにかくパジャマに着替えようねって言っても、『イヤだ!』って、言う事を聞かないのよね」
うんうん、わかるわかる。ほぼ毎日、ナツモはそんな感じなのだ。
「だからね、『優しいじいじ(僕の父親)』から言ってもらう事にしたのよね。お父さんがパジャマ持ってお願いするとね、急におとなーしく言う事を聞いて着替えるの。おっかしくてねー」
なるほど、その手があったか。
内弁慶なナツモは、僕の父親にはどちらかと言うとまだ心を開き切っていない。ナツモがワガママを言いたい放題なのは心を開いた人間にのみなのだ。だから、僕の父親にはイヤだと言えず、固まってしまうのである。
うまい。我が母ながら、老獪な戦術である。