【199日目】シールを大切にね


August 27 2011, 2:44 AM by gowagowagorio

8月17日(水)

ミノリがベッドの端へ向かって猛然と進み始めたとき、僕は、間に合わない、と思った。

今はベッドの横にマットレスは敷かれていない。僕は数秒後に響くであろう鈍い音を想像しながら、肩を竦めて成り行きを見守った。

と、ミノリがベッドの端に到達すると同時にぴたりと立ち止まり、そこから首を伸ばして下を覗き込んだ。そして、マットレスがない事を確認(したように見えた)すると、おもむろに後ろ向きになり、そろりそろりとバックして床に降りたのである。

呆然とする僕を尻目に、ミノリは何事もなかったようにバスルームを探索しに姿を消した。

今のはまぐれか?それとも意図的に?

もし意図したのだとすれば、いつの間にそんなテクニックを身に付けたのだろうか。9ヶ月半ともなればそれぐらいの知恵がつくのは極めて自然な事なのかも知れないが、僕はミノリのスマートな身のこなしに軽い感動を覚えた。

・・・のも束の間。

朝食のためにミノリを席に着かせ、その目の前にトーストをちぎってならべていく。腹を空かせているらしいミノリは、僕がパンを置いたそばから、まず左手でそれを掴み、僕が続いてもう一切れ置くと、今度は右手でそれを掴む。その都度パンをちぎるのは面倒なので、ある程度まとまった量を置いておこうと僕はさらにパンを置いて行く。するとミノリは、今自分が両手に何を握っているのかをもう忘れてしまったのか、自分の左手と右手のコブシをしばらく交互に眺めると、両手が塞がっている事実だけを認識したらしく、突然犬のようにテーブルのパンを口で取ろうとし始めたのだ。

僕は、先ほどミノリがスマートだと思った事を、心の中で撤回した。

それだけではなかった。口でパンを拾うのは予想以上に食べ難かったのだろう、ミノリはしばらく考えた後に、おもむろに左手に握ったパンの欠片をぽいっ、と放り投げて、その左手で新しいパンの欠片を掴むのだった。食事に関しては、スマートさの欠片もないミノリである。

−−

さて、ナツモは今日も積極的にプールへ行きたがる。鉄は熱いうちに打てと言うから、ナツモも今のうちに打ちまくった方がいいだろう。

僕はそれを快諾し、ミノリも引き連れプールサイドへ降り立つ。しかし、今日は天気があまりよろしくない。しかも、風があって少しばかり寒い。昨日はいた賑やかな子供たちの姿はなく、どことなくプールは荒涼とした感じである。

寒いせいか、動きの悪いナツモの泳ぎにも大した進歩は見られず、あんなに浮き輪が好きなミノリでさえ、水に浮かべていると泣き出す始末だ。

今日はコンディションが悪い。早々に上がる方が賢明だろう。また明日から出直せばいい。

ところが、プールから出ようとする僕の背後で、ナツモの聴き取りづらい声が僕に何かを訴えている。

「・・・ほしい」

「え?なに?聞こえない」

「・・・あのね、あたらしいすてっかーがほしい」

「はあ?」

何をバカな事を。昨晩、プリンセスのシールを買ってやったばかりではないか。

ナツモは今朝、それを嬉々として学校へ持って行ったはずだ。

「買う訳ないだろう、昨日買ってあげたばっかなのに」

「でもね、すてっかー、きょういるんだもん」

「でもじゃない。必要なら昨日買ったやつがあるでしょ」

「あたらしいのがいい」

身体が冷えていなかったら、この時点で怒りが爆発していたかも知れない。

「新しいのは買いません」

僕は極めて冷静に振る舞うように努めた。

「でも、きょう、およげたよ」

・・・やはり、そう言う事か。だから言わんこっちゃない。

僕が昨日抱いた一抹の不安は的中した。ナツモは、昨日の事に味を占め、ちょっと泳げばステッカーを買ってもらえると思うようになってしまったに違いない。

「昨日と全然変わってないじゃん。あのね、次にもっちゃんがプールの事で何か買ってもらえるとしたら、この深いプールで端から端まで泳げるようになったら。それからだよ!」

そんなのは何時の話になることやら、僕にだって分からないが、とにかく僕はこの場を諦めさせる事、そして断じてステッカーは買わないぞという強固な意思表示のつもりで、無理は承知でそう言った。

しかしナツモはすかさず食い下がって来た。

「およげるもん!」

ああ、ステッカー欲しさに大言しやがって、そういうウソは付くもんじゃないぞと言おうと思った瞬間。

「・・・うきわで!」

もう少しで沸点に達する所だった僕は、おかげで一気に脱力してしまった。ナツモのこの必死さには苦笑するしかない。

バスタブにナツモとミノリの二人を放り込み、自分もそこに入ってお湯を溜めようとしていた時である。にわかに股間のあたりに温かいお湯がかかるのを感じた。

先ほど僕からステッカーの購入を拒否され、いじけているナツモが嫌がらせにシャワーをかけているのかと思い蛇口を見ると、まだシャワーは出ていない。

まさか・・・

僕は自分の股ぐらに視線を落とす。案の定、そこにちょこんと腰掛けたミノリが、何食わぬ顔で僕に粗相をしているのだった。

まあ、今日は寒かったから尿意が促進されるのだろう、仕方がない。ここがバスタブの中だったのが不幸中の幸いである。

シャワーを浴び終わって、身体を拭いていると、ナツモが何の脈絡もなく、突然宣言した。

「すてっかー、せんせいにきいてみるよ」

「え?なに?」

僕が事態を飲み込む間もなく、ナツモは勝手に饒舌にしゃべり出す。

「せんせいが、きーぷするねっていってたから。すてっかー。だからあしたきいてみるよ」

ははあ。ナツモの必要以上に堂々とした物言いのおかげで、僕は状況を把握することができた。

「もっちゃんプリンセスのステッカー学校に忘れて来ちゃったの?」

「ちーがーう!わすれてない!せんせいがきーぷするっていってた!」

ここでまた、何故か必要以上にムキになるナツモ。自分の非を認めたくないのだろう。

「わかったよ、じゃあ明日取ってきな」

と言いつつも、僕の心の片隅には、イヤな予感があった。先生が持っているという話はかなり信憑性が薄いだろう。

ナツモはもしかして、学校に忘れて来たのでもなく・・・

いいなと思ったら応援しよう!