親子関係とその影響 1例
現在、共稼ぎ家庭の方が多いが、自分が子供のころはまだまだ専業主婦がいる家庭の方が多かった。そんな中で自分は両親ともに教員と言うフルタイム労働者の夫婦の子供で、周囲には同じ境遇の子供はほとんどいなかった。
両親の仕事が成立していたのは、小学校2年生まで住んでいた場所から徒歩30分くらいのところに母の両親が住んでいて、その助けを借りることが出来たからだ。おまけに祖母は自分が生まれたときに40代前半の専業主婦であった。
保育園時代の生活。6:30起床。7:00過ぎるころに家を出て母に連れられ自転車で祖母卓へ。8:00過ぎに保育園へ。17:00過ぎに祖母宅へ帰宅。母が18:00過ぎてから迎えに来る。職員会議がある日には19:00を過ぎることも。よく土曜日に祖母宅で「8時だよ 全員集合」を見て、「Gメン75」を見ながら布団に入っていた記憶があるので、土曜日は両親ともに遅かった(飲んでた?)のだと思う。日曜の午前中は、父と競馬場にいた記憶はあるが、母といた記憶があまりないところを見ると、母は絵画教室に行っていたのではないかと思う。小学校に上がるまでは長い休みが同時に取れるのでよく旅行に行っていた。山などの子供向きではないところへは、祖母宅へ預けていっていたのだろう。
小学校へ上がると、1年次は放課後は学童クラブへ行っていた。しかし、クラスの友達と遊べないので2年次にはやめた。
小学校へ上がっても両親の出勤時間や帰宅時間は変わらない。自分が起きるころには家を出てしまう父。7:30には弟を連れて出る母。そして、8:00過ぎに一人で鍵を閉め家を出る自分。いわゆるかぎっ子。学童は17:30までだから、母が帰る18:30くらいまで一人だ。大抵テレビを見ていたのでそのころのアニメはとても詳しい。ときどき母が遅くなるときは祖母宅へ行き、夕食を食べさせてもらうことがあった。最初から行くことになっているときもあれば、電話が来てから出かけることもあった。子供の足では40分ほどで、半分弱くらいの行程はバスを使うことができたが、半分弱ではあまり得ではないのでバス代をアイス代にしていたこともあった。
母方の祖母は、自分のことを猫かわいがりしていた。弟のこともだ。こうして書いているとかなり自立することを要求されていたが、幸福な時代だったと思う。
その風向きが変わったのは、小学校2年生の3学期からだった。住み慣れた土地を離れて(元の住所からは電車を使って1時間半程度だったが)、父の両親、妹(叔母)と暮らすことになった。
訳がわからないまま引越しが決まり、転校し、新しい生活に放り込まれた。父方の祖父母は子供を特別猫かわいがりするわけでもなく、邪険にするでもなく、必要があれば面倒を見てくれた。明治生まれの祖父は、ものすごく短気ですぐ怒鳴る人であったが、基本的には公平な人だった。祖母は今考えてもつかみどころがない。いや、つかみどころがないと言うのはこちらの感想で普通の専業主婦だった。朝起きて家の中を掃き掃除し、仏壇にお経をあげ、朝食を作り…という感じだ。自分や弟が病気になれば、医者に連れて行ったり様子を見たり。朝食は両親がパン食だったが、自分はご飯を食べたかったので祖母にたのんで一緒に食べさせてもらっていた時期もある。同居人という感じで、ほとんど干渉はされなかった。
一緒の家には住んでいたが、二世帯住宅もどきで祖父母とは微妙に生活が別れていたりいなかったり。祖母の足が悪かったので、買い物を請け負ったりしていた記憶もある。叔母は高校のころに嫁に行った。美人と言える人で病院の医療事務をしていた。自分が銀座だの日本橋をうろつけるのは叔母に連れ歩いてもらった記憶があるからだ。
さて、父方の祖父母と同居してからの学校生活というと。一言で言って厳しかった。両親は働いており、子供の学校生活に関わるのは、家庭訪問のときくらいだ。PTAも保護者会も全くでない。だから、学校と関わらない。自分はそこそこ忘れ物も多く、手紙も自分から出すことは出来なかったから、色々大変だった。よその家では親が色々と面倒を見てくれたのだろう。小学校の教員の母はよく学校行事がバッティングして、来るどころではなかった。父も学校や他の父兄と関わるのが煩わしかったのだろう、運動会をちょこっと見に来るくらいだった。
5・6年のころにはいじめにも遭い、毎日、終業式まであと何日みたいに、終わりが来る日を数えて耐えていた。親に迷惑をかけてはいけないとか、いじめに遭っている自分を恥じて(プライド)、意地でも学校には通っていた。親は気づいていなかったか、様子がおかしいくらいにしか思っていなかったのではないか。後年の母のセリフでは「何かあったら対処する覚悟はしていた」だそうだ。これは結構堪えたセリフのひとつである。「何か」あるまでは助けてくれない、のだから。中学校1年のころは授業崩壊もあり、授業をまともに受けられずイライラしていた。
今考えると本当になんだかな、と思う。学校生活への親の支援がほぼなかったわけだ。興味もない。行事も来なくてこちらから話さなければ敢えて細かく聞くこともなかった。教員と言う職業のせいなのだろう、どのような発達段階を経て成長するかを知っているので、はずれたり遅れたり問題を起こさなければそれでいい。自分と同じ興味を持ったり、提案することに興味を示せば相手をするが、興味が違うのであれば無理強いはしない。そして私の個性に興味を持たなかったのだ。
父は有名進学校の教員で、私よりずっと勉強の出来る生徒に囲まれ、教育欲は満たされていた。要求に努力をしない私のお尻をたたくより生徒に教える方が達成感が得られる。そして私の努力が、授業が成り立たないほど荒れた公立学校で生き残ることに注がれていることに気づいていなかった。
母は弟が「お母さんって本当に僕達の成績に興味がないよね」と言ったときに「そりゃ、読み書き足し算引き算できなきゃ教えるけどね」と言い切ったほど、勉強が出来ることに価値を見出さなかった人だ。絵を描いたりフルートを習ったりしていることも併せて考えると、芸術的な才能は興味を持ったろうが、残念なことに我らはそういった才能を持ち合わせていなかった。
両親は、ある程度収入もあり、出来る人たちだったので、他人に期待するより自分達で成し遂げればいいという完成の持ち主で、子供が期待に応えないと思うと興味を失い、自分達で進んでいく人たちだった。
それはそれでいいのだが、現在、その影響で困っていることがある。
私が自分の子供たちの成長に興味が持てないのだ。
子供は見てもらい認知欲求を満たすものだと思うのだが、自身が親に認められた記憶が薄いので、迷惑をかけられなければいいとしか感じないのだ。子供の作ったものや出来た何気ないことに心が動かないのだ。
これは問題だと思う。子供の成長に必要なものが欠けているように思う。そして子供本人達には全く責任のないことなのだ。だから、私は意図的に子供たちを見るようにしている。子供が喜ぶように振舞うように心がけている。苦痛に感じるレベルまでは付き合わないが。これは正直結構きつい。興味のない話を延々と聞いているようなものなのだから。
そして、今、子供たちを見ていると、自分や弟より自立していない気がする。朝は起こさないと起きないし、出かける時間も意識して用意もしない。何か育て方を間違ったのだろうか。
でも、私は子供たちが私ほど親から無関心に育てられてはいないと思う。嫌な思いをすればそれを家で話すことができるし、私のように近所の人間に身体をまさぐられても親に話せなかったり、母方の祖父に胸を触られて伝えられなかったような関係にはなっていないはずだ。学校に行っても話の出来る友人がいない状態でもないと知っている。夫は担任の先生とよく連絡を取って話してくれる(私は小学校時代のいじめと担任の無関心の後遺症で学校へ近寄るのも関わるのも嫌だ)。兄妹の年齢も近いのでケンカばかりしているが、家でも一人でいることはない。
親として欠けているものがあるという自覚はある。ただ、自分のためにも子供たちのためにも子供のほうを向いている親でありたい。
親に認められたという実感がないことは、未だに私自身の根幹を不安定にしている。周囲が認めてくれていても自分が自分を認められないのだ。できたことよりできなかったことばかり見てしまう。
ネグレクトでもない。虐待もない。金銭的には問題ない。ただ、親が子供を個人として興味を持たなかった。認める対象として扱わなかった。それだけのことである。それが今の私をこれほどまでに息苦しくしている。
外からは見えないだろうが、私は努力している。必死に生きている。子供の友達ではなく親であろうとしている。我が子から目を逸らさず見続けようとしている。
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