愛とはその人の話さないことを含めて見守ることかもしれない
ありんごです
その人が話さないことこそ、その人の本当の姿を映すと思う
実感したのは何故だろうか
どれだけオープンな人でも話したがらない話題というものがあったりする。それは、その場にいる皆がなんらかの理由でそのとき避けている話題であるとかそういうことではなくて、他の人は気にせず話しているような話題だけれど、その人が個人的に答えをぼやかす話題のことだ。仲良くなってくるとそれにうっすらと気付いてくる。でも私は「○○さんって、〜について全然話してくれないですよね!」とか「なんかあったんですか?」とは聞かないと決めている
人には見えない闇がある
地獄がある
そう気づいたのはいつからだろう
どんなに明るく見えても、楽しく見えても、悩みなんかなさそうに見えてもだ
それは自分で気づいて向き合うしかないことだから、他人がその片鱗を見たとしても踏み込んじゃいけないなと思うのだ
踏み込めば偽善、きっと踏み込まなくても偽善となるのだろう。偽善と言われてもどうでも良い。だってどちらにしても、私にできることはそんなにありやしない。それをわかっておきたい。私だって自分の地獄を持て余しているのだもの。私が私と向き合っていれば、その姿によって誰かにヒントを与えられるかもしれない。その一点くらいだ、人の闇に関与しようと試みたとしてもね
その人の傷は闇は地獄はその人のものだ
大切な人の中に巣食う闇に、どうにもできないと絶望することもあるでしょう。その地獄に共に飲み込まれそうになることもなるでしょう。でもね、それはあなたの闇ではないし地獄ではないんです
どんなに愛しくても、融合することはできない、それを痛いほど感じたことがありました
孤独なんですよ
何より大きな学びは、ひとつだけ
闇があっても地獄があっても幸せになって良いんです
これに尽きる
だから人の闇に踏み込むな、自分の闇を受け入れろ、きっとみんな幸せになれる
それが無理をしないってことなんじゃないかな?
その人の避ける話題が、その人の傷を闇を地獄をうっすらと浮かび上がらせる。それを垣間見たことにぞくりとしながらも、近づけたことを少し嬉しく思って、見守る、つまり選択を尊重する、そんな愛が良いな
ありんご