部屋も思考も片付かなくても、生きねば。
ありんごです
どうしたら良いのだろう。部屋が片付かない。
生存に必要不可欠なものの数は高が知れているはずなのに、なぜ私の部屋はものに溢れているのだろう。
ミニマリストになりたいと強く思っているわけではない。でも、片付かない部屋に少し焦る。自分の思考を、心を、写しとられているようで。
ある日、大切なものを思い切って捨てた。本当は物理的にも心の中にも取っておきたかった。でも、執着したくない事情があった。取り戻せない状態に自分を追い込みたかった。それからだ、わからなくなったのは。ものの処分に迷うと、どうにもならなくなった。
何であれを捨てたのにこれを捨てられないのだろう?そう思うと動けなくなった。もしかしたら普通は、あれを捨てたのなら何だって捨てられるなあという気持ちになって断捨離が進むのかもしれない。私もそれを副次的に期待していた。でも私は心が痛いんだ。しくしくと痛いんだ。
私は今何を持っていたら良いんだろう。これから何を持っていたら良いんだろう。私はまだ、過去の痛みを引きずって、それらが見えない。戻れないから前に進むしかない、その当たり前を私の世界に持ち込みたくて、捨てることを選んだけれど、心はまだついて行けていない。
本当は気づいている。今何を持ちたくて、これから何を持ちたいか、問われていることに。すなわち、今どうしたくて、これからどうしたいか問われている。あの大切なものを捨てたことが、良いきっかけになったと後で言えるようにしたいんだ。そうじゃなければやってられない。
部屋と思考のどちらも片付かないのならば、どちらを先に片付けたらいいのだろう。それとも、鶏が先か卵が先か理論で、考えるだけ無駄だろうか。でも考えなかったら部屋の片付けも思考の整理もできないし。堂々巡りだ。やっぱり鶏が先か卵が先かじゃないか。ああもう。こうしていることがまさに片付かない思考であり、部屋なのだろう。
あの日、大切なものを捨てて部屋と思考は均衡を失って散らかった。そうとも言える。でも私は。それでも私は。大切なものを捨てたからこそ、新しいバランスを目指して進んでいるところなんだ。そう思いたい。変化し続けなきゃって、本当はずっとわかっているんだ。
月並みな言葉だけど、身を切られるほど辛い。でも、そうしなきゃどこにもいけないってわかっていたからそうしたんだ。私をどこかへ進められるのは、私だけなんだから。
何が欲しいか真剣に言葉にしよう。何をしたいか思いついたらやってみよう。会いたい人に会えるだけ会おう。生きねば。
ありんご