飽食とインプットという病
停滞していると気付いたら──?
「人類」が停滞することはないと思われる。とくにここ100年余りで人類は目まぐるしい技術を手にし、豊かな社会を手に入れた。もちろん貧富の差はあるし、差別や諍いも残っている。二本で暮らしている殆どの人間は、それらを遠い出来事として捉えているはず。
しかし「個人」となると停滞は日常的にやってくる問題になる。例えば会社で出世するべきか、このまま停滞して生きていくか。もちろん、どちらにもメリット、デメリットがある。前者は給与や立場が大きくなるがその分責任が大きく、後者は責任は小さいが給与と立場もそれに見合ったものになる。ただし精神的な負担は出世したものより少ないだろう。(ここでは会社内の人間関係は別として扱う)
さて、僕は給与は少ないが自由な時間を手にしている。このままでいいのか問題が発生した。時間の密度は日中働いている人より余裕があるのだが、余裕があると怠けてしまうのが僕という人間だ。
特に暑い日が続く。エアコンがない部屋なので、必然的に涼しい場所で出かける必要ができてきた。自宅で書く時間を確保できるのは、早朝と夜中ぐらいのものだ。執筆はそれでいい。問題は日中の時間の過ごし方だ。
YouTube ニコニコ動画 ピクシブ小説 まとめサイト Twitterを気がつけば眺めてしまっている。日中の時間はこれらの時間に奪われてしまい、本当にやることを疎かにしていると気づき、頭の痛い問題へと発展している。対策はごくシンプルに「見るな」と一点だけなのだが、見てしまう。なぜか。これは明らかに、書くことより見ることを楽だと体が覚えてしまっているからだ。
子供の頃からどんな形にせよ「アウトプット」を中心に生きてきた人は少ないと思う。それが当たり前になるのは大人になり働き始めてからだ。インプットよりアウトプットの比率が高くなり、逆にインプットが疎かになると聞く。僕は大人になってからもインプットの比率が多い。アウトプットは大変だし、エネルギーもかかる。ときには苦しみを生むし、成果物が常に正当な評価を受けるわけではない。それに比べインプットは楽だ。見て、聞いて、読むだけで、自分の中に蓄積していく。これだけでも何もしない人よりかは十分な価値を生み出している。
無論、インプットだけでお金が得られるわけではない。そんな簡単な話は世の中にはない。インプットばかりしていくと自分に都合のいい言葉だけが頭の中に入ってきてしまう。これは最悪だ。視野が狭くなり、考えも凝り固まってしまう。そんな楽な状況が続くと、たとえ新しいことを始めたとしても一回のつまずきで辞めてしまう。「楽」は怠慢を生む。
もちろん作業は楽にこしたことはない。ただ最短ルートを行くには最低限動く必要がある。その道を眺めたところでゴールに辿り着くわけではない。
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