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√K 作家支援プロジェクト|戸谷太佑「hibari」に行った話
戸谷太佑 氏の初の個展「hibari」を鑑賞し、考察したこと(正確には考察できなかったこと)、経験したことを書こうと思います。
√K 作家支援プロジェクト|戸谷太佑「hibari」
神楽坂。
今日の舞台は神楽坂。
お洒落な雰囲気のお店が立ち並ぶその道は、なぜかこの坂の向こうには海が広がっているのではと思わせる(おそらく、学生時代訪れた小樽や函館という港町とどこか重なるところがあったのだと思う)。
降りる駅々で街の顔が違うこの感覚もいいものだなと思いながら、歩みを進める。
インスタレーションに思考の一歩目が出ない
住宅街にたたずむ√K Contemporary。
閑静な中に白く際立つそれは、今日の目的地を自ら示してくれるようだった。
地下の展示会場に降り立つと今回の作品群が見えた。
インスタレーション。アート鑑賞を始めて間もない私は、その表現方法に初めて能動的に対峙する。
今回の展示に対する戸谷氏の想いの中に下記のようなものがある。
固有性を剝ぎ取られたアノニマスな「風景」に対する戸谷自身の個別的で置き換えの効かない経験をいかに扱えばいいのかという「ねじれ」を起点に構想された。
アートとして表現された時点で、表現しようとする対象が抽象化されてしまい、具体的に自分自身が体験したそれを完全には再現しようがない。
そういう葛藤にどう向き合うべきかという思いから今回の作品が生まれた。
というように解釈した。
具体的な作品を目の当たりした時に、思考は止まった。
もちろん目の前の作品を知覚することはできる。
が、そこから制作者が表現しようとしたそれに具体化し、また自分自身が持つ具体的な何かと照らして考察するというようなことが全くできない。
絵画と比較して表現方法の幅が広がっている分、作品を知覚してから制作者が表現しようとした意図を考察するには、一層自分自身に対する理解や相対化するためのアート体験が必要だと感じた。
アート鑑賞から何を得るのか
帰り際、ギャラリストの方と話すことができた。
アート鑑賞を始めて間もないことを伝えると、今後の展示内容などを紹介してもらうことができた。
会話の中で、「なぜアートを鑑賞するのか」について言語化する機会をいただいた。
アート鑑賞の道半ばで思考していることではあるが、アートを鑑賞する背景にあるものは「具体と抽象の行き来の中で、その思考の幅を広げること」だと思った。
制作者が表現しようとした何かを、アートという(言葉で伝えるよりは)抽象化されたインターフェースを通じて知覚する。
そして、その知覚した時の感覚やアートのディティールから、制作者の表現の意図(具体)を考察したり、自分の中にある経験(具体)に重ねたりする。
この具体と抽象の行き来を行うことで、日常生活の個別具体的な出来事から抽象化した何かを感じ取り、別の出来事に活かすことができるようになる。
人生の時空を超えた繋がりを得るというのが、アート鑑賞を続ける意味なのではないかと考えるようになった。
市場としてのアート
一方で、ビジネスな視点から見たアートというものにも関心がある。
世界規模では10兆円規模(2023年)の市場であるアート市場の中で、日本の市場ははその1%程度である。
アートが届ける価値をより広く体験してもらうことで、結果として日本のアート市場が盛り上がる。
そんなムーブメントに少しでも貢献できないか、そんなことを考えながら本記事を書くのであった。