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「優しさ」とレトロニム

優しい男はモテる。
そんな言葉に騙されてきた男性は数多くいるだろう。僕もそうである。僕は根っからの超絶優しい人間で超絶優等生でおまけに高身長のイケメンで実家も太い(諸説あり)。
しかし「モテる男性の特徴」などをランキングしたものには、必ずといっていいほど「優しさ・誠実さ」がランクインしている。この矛盾は一体どこから来ているのだろうか。
僕はそこについて一つの結論を思いついた。キーワードとして僕は「選択的優しさ」という概念を持ち出そうと思う。
そもそも多くの人間は「優しい」ということを勘違いしているように見える。多くの優しさの正体は「無関心」であり、多くの優しさの正体は「責任転嫁」なのである。
例えば「夜ご飯何食べたい?」という何気ない質問に対し、「何でもいいと」答える人間。何でもいいという言葉の裏にはおそらく「相手が食べたいものを食べさせてあげたい」という気持ちも含まれているだろうが、自分が提案したものが気に入られなかった、自分が選んだお店が気に入られなかった場合の責任から逃れたいという気持ちが見え隠れしているのではないか。しかしそれは何でもいいと言われた相手にとっても同じ責任があり、そして相手に判断を委ね、責任を押し付けているというのが事実である。
このような優しさは無関心であり、責任転嫁である。
一方で僕が考える「選択的優しさ」というのは何か。これは「やる必要がないのにあえてその行動をする」という概念こそが優しさの正体であるという考え方である。
たとえば居酒屋でちょっと飲み過ぎてしまった女性に対し、2人分のチェイサーを注文するといった行為。これは、チェイサーを注文する必要はないのに敢えてそういうことをするというところに優しさの本質がある。同じようにさりげなく車道側を歩いてみたり、さりげなく荷物を持ってみたり、さりげなくスカラを唱えてあげたり、そういった「やる必要のない行為」というものが優しさの本質であると僕は思う。
本来優しさというのは、すべて元来やる必要のない行為なのではないかと思う。しかし「優しさは大事」であるという考えが広がったときに、相手に判断を委ねさせるといった行為を優しさだと勘違いしてしまうことが多くなってしまったため、本来の優しさとはかけ離れた優しさが生まれてきたのだと思う。
つまり僕が提示する「選択的優しさ」という言葉は、「優しさ」に対するレトロニムなのである。
レトロニムとは、例えば白黒テレビという言葉。元々、テレビが登場した当時は全てのテレビが白黒だったので、白黒テレビを皆がテレビと呼んでいた。しかし「カラーテレビ」の登場によりカラーテレビの方をテレビと認識する人が多くなった結果、敢えて白黒テレビを「白黒テレビ」と呼ぶようになった。他にもアナログ時計やアコースティックギターなどがレトロニムにあたる。
結論求められる優しさは無責任的優しさではなく、本当の優しさは「選択的優しさ」なのである。


この文章を最後まで読んでくれたあなたは優しいので、選択的優しさをくださるはずです。
Web3.0時代()なので、ETHで受け取るというのも面白いかもですね。
僕はdouble型で定義されているので全然小数単位のETHで結構です。
ウォレットアドレス:0x3B354f44018ce9241D5CcAB19a012cE77BA05Fd4

※よく考えたら匿名性が高いせいで直接お礼が言えないので、お捻りを送ってくださった方はよかったら「ETH送りました」か「月が綺麗ですね」とコメントください。

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