テキスト2022.04.12

 ◆「この展示」の物語観
 私は物語をあらゆるところに発生するものと捉えたい。映画やアニメ、演じる事の関わらぬ場所でも、画面と観客、話し手と聞き手といった構図が形成された、普段とは区切られた感覚に存在すると。普段とは区切られた感覚は、人の在り方の違いにある。その感覚を受け取ろうとする、観客の態度を取り始めた私たちに物語の受容が始まる。私たちは物語の受容を目的にしていく。私たちは物語に集中する。その気持ちには物語に対してノれる・ノれない以前に、何をしようとしているのか理解しようとする動きがある。なぜなら何をしようとしているか、もしくは何が起きているのかの判断がつかなければ完全に物語だったと感覚を区切ることが出来ないからだ。また言葉が無くても何をしようとしているのか理解できる場合があるように、非明示的でも「何をしようとしているのか」の理解は物語の自覚に先立つ。

◆「「この展示」の物語観」と理解の快感」
 物語の理解には、しようとしている事を理解する快感と、物語にノった快感が生まれうる。しかし「物語をあらゆるところに発生する」とした時の物語は「ノれる」ものばかりではない。「ノれない」場合で最も不安なのは、「何をしようとしているのか」理解できない状態だろう。物語が普段とは区切られた在り方を観客が自覚することを必要とするならば、「ノれない」上に「何をしようとしているのか」理解できない状況は「在り方」に迷うものだ。つまり物語と思いにくいだろう。そして、しようとしている事を理解する快感は、迷う不安と反対に、観客になる安心に因るだろう。だが「何をしようとしているか」理解できないことで「普段とは区切られた在り方」に変化し、それを自覚する懸命な観客も居る。そういった人々が理解の快感を持ち合わせていないのではない。「何をしようとしているのか」早く理解できずに堪えかねて離れていく人々を横目に、より一層時間をかけて理解を定めようとするだろう。例えば難解な作品を残した作家の日記と作品とを組み合わせ理解の快感を得ようとするような姿だ。そのような経緯によって観客と作品の物語は多様性を失うのである。

◆「「「この展示」の物語観」と理解の快感」と作品」
 作品と観客の物語に対して全ての私たちが行うべき適切なこととはおおよそ批評文を書く事ではないだろう。適切なことなどあるだろうか。ただ物語を前にして私たちが軽率にとってしまう行動があるのみだろう。それを自覚することは必要だ。話題の背景/コンテクストを「展示」に差し替えながら考える。物語を自覚し、観客へと着替えた私たちは、じきにその物語の消失を迎える。人間の感覚はすべからく一時的で持続しないからだ。「何をしようとしているのか」理解できないという感覚も物語の消失にあり、作品を理解しようとする観客という物語の消失が、理解できないという結論によって締めくくられる。このある作品に対する捜査の打ち切りによって事件/物語はファイルごと箱にしまわれ、観客は作品の前から遠ざかり「物語の自覚」のない状態に戻る。「トビラ石」の前の観客もトビラ石に写る自分を意識しなくなれば、その物語は、簡単にしまわれてしまうだろう。残念なことに物語の消失後、未来に居る多くの私たちは軽率にその物語を再考できるようになる。再考の度に物語は焼き直しされながら変形し、もう二度と戻らない。そういった意味で作品と対峙して物語を始めた観客の、まっさらな関係/物語は本当に軽率に消失してしまうのである。

◆「「「「この展示」の物語観」と理解の快感」と作品」こそがこの展示か」
 観客にとっての物語は変形してしまう。一番初めが一番幼く一番純粋で、それが心の中で生き続けるかけがえのないものであると思っている人々にとっては悲しいかもしれないが、しょうがない事である。では作品にとってのまっさらな物語とは何であろうか。「トビラ石」にとって物語はやはり「展示」である。「展示」を最も物語として扱うのは作家以上にキュレーターといえるだろう。展示なくして作品との出会いはそうそう無い。その展示にどのような作家のどのような作品をどのように設置し、どのように見せようとするのかという手つきや語り口は、作品にとっての物語を大きく左右する。それによって作品のタイトルとは別に展示のタイトルや、展示にあたってのキュレーターのテキストが出現することもある。これら作品以外の部分が観客の物語に与える影響は強烈だ。作品に対する観客の物語を展示の仕方によって、時には感情的に方向付けてしまえるだろう。このように物語で捉えると、作品にとっての展示は厄介なものかもしれない。また、いわゆるキュレーターが居ずとも展示には、誰の展示であるのか、作家は何歳で性別はどうか、見た目はどうなのか、会場は過去にどんな作家の作品を展示しているのかといった、作品と観客以外の「関係/物語」に作品は押されていくのである。

「トビラ石」の展示ではこれらをやんわりと座礁させようとしている。

それ故にこのテキストも現地には置いていない。

またこのテキストは完全な物語でジョークである。

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