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稽古場アレルギーについて 一部の演劇のマッチョさに対して引く

 私が演劇に触れだしたのは高校から。ただ約7年ほどの間に演劇の稽古場が嫌になってしまいました。“稽古場アレルギー”と呼んでいる嫌さについて共感が得られるかどうか分からないですが、遺しておきたいと思います。

 稽古場アレルギーは大学の2年の頃に自覚し、名付けた、精神的な不快感のことであり、それの言い換えを目論むのが本文です。稽古場アレルギーの諸感覚を箇条書きにしておきます。

・稽古場から出ると、静けさにやや安心できる
・稽古場での自身の立ち居振る舞いを、「頑張る」必要がある
・稽古場に居る他の人々の高い温度感について行けないと感じる
・シアターゲームでミスしないか不安になる
・自分以外の人が共有しているノリを止めたくない
・稽古場の高い温度(ノリ)感について行けた時に、上記諸感覚は発生しない。
・ついて行けた経験の事を「馴染めた経験」と表現したく思う

このように稽古場アレルギーは、合わない稽古場の空気に触れている時に自然と取ってしまう行動/反応を伴っています。そして逆に自分自身が感じていない時であっても、他の誰かが稽古場アレルギー反応を起している可能性が常に考えられる。そういったものなのです。

 ここで、“合わなさ”を生んでいる原因を"演劇のマッチョさ"と表現したい。「アツく・つよい・まとまった集団」としての稽古場に“マッチョさ”を見出せるのではないかという提案です。そういった稽古場では、マッチョなリズムが流れ、そのリズムに乗れればとても心強く本番に挑めるでしょう。私もそのリズムに乗った経験があり、共演者との一体感や感動のようなものを感じたこともある。しかし、それでよいのかという疑問が残り続けてきたのです。リズムに乗らなければいけない不安を抱え、そのリズムの中では嫌な事があっても大きな拒否反応として示す事が、リズムを崩す事と同義であって難しい。稽古が終わってから嫌な経験が疼痛のように響いてくる。

 嫌な経験について拒否反応を示す事の難しさを自覚した時、私は稽古場アレルギーをはっきりと認め、少し公言するようになりました。それ以降は稽古場と距離を置き、稽古場アレルギーと同じ感覚を引き起こす授業は履修しないようにしていました。

 その距離のお陰で、演劇のマッチョさについても分かる事が増えたため、箇条書きしておきます。

・稽古場の人数が増える程マッチョ感アップ。
・複数人が同じ動きをするとマッチョ感アップ。
・演出家や多数を纏める少数人が居るとマッチョ感アップ。
・大声でマッチョ感アップ。
・旧来型のジェンダー観でマッチョ感アップ。

といった感じです。もしかすると全体主義の気配こそが演劇のマッチョ感の正体で、それへの危険信号が稽古場アレルギーなのかもしれません。

 今はまだ稽古場アレルギーも演劇のマッチョさも、稽古場の全体主義性も曖昧な物としてあり、一部の演劇の現場に於いては目指されるもの(“家族”と形容する所などに現れる?)かもしれません。しかし、私はこれらに対して嫌悪があり、持続的ではないという見解です。また、“マッチョさ”からつくる演劇があるように“ポスト・マッチョさ”から作る演劇もあると思うので全体傾向としてその道が拓ける事を祈っています。







同じ様に稽古場アレルギーを持つ人へこの文章が届けば幸いです。

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