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つづら折りの祈り

事件には加害者と被害者がおり、「被害者のケアと加害者への注意が行われうるが、根本的な解決の為には加害者の奥底にある加害の源をケアしなければ誰も救われない」という考え方が世の中にはある。

発生した事件という事態
加害者・被害者という構造
加害者の源にあるもの。

虐待経験を持つ人が虐待をしてしまうような事が、世の中にはある。
加害者自身が被害者であること、問題解決の為に巡り巡って気づいたら同じような問題の出発地に立ってしまうショッキングな円環。(「猿の惑星」のような衝撃)そんな内包関係は色々な所に見える。


1つのグループが黙り込んで話し合うべきことを何も進めることが出来ない様子を経験したことが無い人は居ないのではないだろうか。


これも内包関係だったりするだろう。 誰かが話さないと誰も声を出すことが出来ない空気 がグループを支配し、無言のうちに全員の態度が合わさりながら沈黙に座礁する。この時、1つのグループと自分の関係は、どちらが加害者・被害者と言えるだろうか?黙っている加害者の自分か、話せない被害者の自分か。
苦しく沈黙に突き進む(例えばオンラインブレイクアウトルーム)の場の責任はグループを構成するそれぞれの行動に原因がある。しかしその行動の源は、“場”自体である。自分のせいにも誰かのせいにもする思考が無言の中で織り込まれていくことが沈黙を生み出し、グループの第一声にふさわしいタイミングを超過し、色が失われ、これを繰り返す場。

源は場であるパターンが実は多い気がしている。場=環境ともいえるが、苦しい事態の源は苦しい事態の前に存在し、人がそこに繋がりがあると気づけていない事の多さ。場の源に注目する環境が無い。



「伝え方が9割」「親ガチャ」「転生」
環境に原因を求める思考は年々高まるのではないだろうか。しかしここにあるのは環境が変えられない無力感とポスト・”希望”の、逃避かもしれない。

本当に環境を変えるのはハウツー本を小脇に抱え、天才に憧れる個人ではないだろう。方法や才能ある個人は短期間か、限られた範囲でしか環境を変えられない、有名な創業者亡き後の企業がどんな道を進むだろうか。

1グループの全員で自律的に環境を作るのはかなりの時間が必要で呆然としてしまうが、諦めてしまうわけにもいかない。

そのために折り重なった思考のみを書いたこの記事を残しておきたい。
場と源に注目する人が増えれば、環境が変わる可能性があると祈っている。




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