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【初心者カルチャーログ】ディズニーシー

はじめに

先日、ディズニーシーに行ってきた。今回はそのレポートをする。だが、安定したエンジョイ系の記事ではないのを念押ししたい。許されない語り口になっている可能性もある。しかし、慣れてしまっては取り戻せない感覚を記録する、旅人の見聞録的な位置としてこれを書く。でも多分大丈夫だと信じたい。楽しかったわけだから。

ーディズニーシー行きに誘ってくれた各位に感謝。ー

入国

ディズニーリゾートラインからランド&シーの全貌を眺めるのは、今から余暇を過ごさんとする異国の地を飛行機から眺めるものと同じ効果だった。事前に購入するチケット(決して安くはない)と入場前の手荷物検査も、まさに入国手続きさながらである。
ディズニーランド&シーはなんやかんやで行けていなかった場所でもあった。しかしただそれだけであり、注目すべき人工のランドスケープとして、アメリカ性を感じる場所として、グローバル経済の巨大な存在として、興味を持っていた。※ここでもう一段階踏まえなければならないが、私のディズニーシー受容の根幹にあるのは、幼少期に通過する可能性の高いディズニーのアニメ映画(人によってはジブリでもある)が無いという事だと思われる。

住民の居ない町

園内は7つのエリアが集合し、それぞれが違った建築様式の空間となっている。混同することは本当になく、それらが外見上違う文化圏に見えることに驚いた。(材質は表面の質感と別のものだろうと思うが。)
建築様式は気候や宗教を含めた環境によって形成され、土地に生きる人々のものである。そういった本物の建築とディズニーシーが決定に違うのは住民の存在だ。私は今までディズニーに行かなかった反面、江戸東京たてもの園に異常に通っていた。そこでは移築された様々な年代の建築を、木の床についた傷跡や歪みのあるガラス、過去の生活と現在の管理の間で見る事ができる。私は美しいメディテレーニアンハーバーとそれを比較せざるを得なかった。
街並みに住民の気配が無いのを忘れ、美しいと思えるのは私が旅行者だからなのではないだろうか。そしてここに居るのは殆どが旅行者であって、もし住人が居たのならば旅行者達とどんなトラブルが起きただろうかと想像すると恐ろしい。

生活のメタファー

その時浮かんだ言葉が 生活のメタファー である。建築や街灯は全てここで生きる人によって生まれたものではなく、現実の、遠い土地の、生活上のものを隠喩(メタファー)として組み込んだのではないか。
生活のメタファーはアラビアンコーストで別の側面を感じさせる。アラビアンコーストは明らかにタージ・マハルやモスクといったイスラム建築の様式を元にしている。しかし、モスク壁面などに描きこまれるクルアーンの文字が無い。当然だがアラビアンコーストはモスクではないからである。
生活のメタファーはディズニーシーに於いて 映像作品世界の実体化 と同時にある。虚構を私達の生活に近づけるために、まるで本物=メタファーの状態にならざるを得ないのである。だからアラビアンコーストというメタファーを前に、タージ・マハルを思うかディズニーの「アラビアン・ナイト」や「シンド・バッド」を思うかは想像力の軸の違いでしかない。

隙間

ディズニーシーに居るうちに、表層の美しさではない隙間が気になる気持ちが生まれるようになった。それは不在の住人や、空間がリアルであればあるほど現実と同じにできない部分のことである。そしてその隙間に生きる者もいた。スズメやハト、カモ、カラス(そしてヒト)達である。
エレクトリックレールウェイの下でこどもが虚ろに落とした抹茶味のポップコーンにいそいそと近づき、本気のつつき喰いを見せるハトに私は心底感動し、アメリカンウォーターフロントのトリケラトプスの化石を縄張りとするスズメの猛々しさ、群れて水辺に浮かぶカモにも惹かれた。
Chim↑Pom from Smappa! Groupの“スーパーラット”の様な野生の存在を彼らに感じた。だから正確には「住人は居た。」という事になる。そこまで清潔ではないが、嫌いになれない存在としての彼らは明らかにポップコーン生活をし、人工の池で繋がりながら浮かび合っていた。

無国情緒

無国情緒は私の造語だが、勘違い日本と言うと伝わるかもしれない。その国っぽくしようとしてチグハグになっている状態に感じる情緒を異国情緒の逆としてポジティブに受け取る言葉だ。つまりはディズニーシーにも無国情緒を感じた。アルファベットと日本語の混ざった看板や、多言語の注意アナウンスが鳴っている。(レイジングスピリッツの日本語注意字幕が何故か緩いフォントであるとの指摘を友人がしていたのを覚えている。)そしてギョウザドッグも国籍不明な感がある。

アトラクション

建築や空間として仕上げられたディズニーシーの中で、アトラクションって何だ?という気持ちになる。「アトラクションはアトラクションだよ」と思えるが、アトラクションはワールド/世界を成立させるものではなく観客の為の存在。私達の状態で言えば、訪れて見てまわる旅行者(客体)とアトラクションに乗り込む観客(主体)の質の違いと見る事もできよう。
アトラクションに乗る為には並ぶ。これもディズニーランド&シーの特徴だろう。専用のアプリから待ち時間をリアルタイムで確認する事が出来なければ苦戦するに違いない。
アトラクションのある建物の中から外に向けて長い列がつづら折りに伸び、最後尾を示すキャストが立っている様子は各所で見られた。列の作り方が想定され、70分以上にもなる列はアトラクションに乗る前のエリアを乗りたい人によって拡張する。異常が無ければ確実に進む列に並ぶことで、自由に動き回る旅行者は段々とアトラクションの観客に変化していく。また、列は並び続けることで位置に価値を発生させ、ここまで並んだらもう抜けられない感や実際先がどれほど長いかを曖昧にもしてしまう。(「列は9割来た」「嘘8割かも」という様な会話もしていた。)
それほどの長さの列を越えてのアトラクションは、荒々しい機械を感じるものだった。独特のガタつきは安全な危険を提供する専用機に相応しい(?)

ノーマルの変容

ディズニーシーの旅行者はカチューシャをよく着ける。ミッキーマウスの耳を模した2つの〇が付いたバリエーション豊かなカチューシャである。夢の国ではカチューシャはノーマル/フォーマルな装いに思える。そういった文化があると感じられた。

夢の国の文化

ディズニーシーにはハトやスズメが住民として生活していると先述したが、旅行者もカチューシャを着けて特殊なポジションに立つと感じた。夢の国の外と中ではノーマルの変容がある気がするのだ。
ノーマルの変容をもたらすのはワールド/世界である。近年ディズニー傘下のアメコミ映画シリーズMCU(Marvel Cinematic Universe)が恐ろしい速度で作品世界を拡大させている様に、フィクションは単一の完結した物語の受容から、一つの世界や設定を共有した複数のキャラクターを抱えたユニバース/ワールド/世界へ変異している。
ディズニーシー自体もディズニー作品やキャラクターを、建築、観客、キャストが共有したワールド/世界を形成しているのだろうという事である。人々はディズニーシーの空間に入ることでキャストとゲストになり、両者のコミュニケーションを活発化させる。手を振ったり、会話をしたり、親しさの温度を引き上げる。それが ディズニーシー/夢の国/ワールド/世界 で共通の文化として維持されるのではないかと考えられた。またノーマルの変容はワールドへの“慣れ”によって起こり、私が結局根本的にゲストに成りきらず、旅行者や観客になっていたのは慣れの度合いのせいだと推測した。

おわりに

ディズニーシーという閉じた空間と文化圏を出ると、そこで過ごした時間は宙ぶらりんになった。フィリップ・K・ディックの小説(映画「トータル・リコール」の原作)にヴァーチャルな旅行を脳に経験させ、まるで行ったかのような証拠品をくれるサービスがあった。
部屋に置いたお土産を前に、そのようなマボロシ感が強く残っている。だから夢の国なのだろうし、(決して安くない)チケット代をこさえてまた行きたいとも思うのだろう。

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