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桜の木を切る

 カーテンから漏れた夕方の光の中で部屋の明かりをつけた途端、涼乃さんが「自治会出なくてもよかったかも」と言った。都心から少し離れた住宅街に引っ越してきて初めて自治会に出てみたのがついさっきの事である。 「そんなに期待も無かったけど…………ね。」と返してはみたが確かに自治会はつまらなかったし、変だった。

数分前

 自治会長が「桜の木の枝が張り出していて困っているんです。」という話を始めたのは「土田涼乃です、健悟です」と自己紹介を終えたすぐ後で、はっきりしない。
 薄青みがかった湯飲みにお茶をそそいだ“妻”マサコさんが座ると、同じく60いくつになろうかという自治会長は集会所の壁を指差しつつ「見ましたか、あの桜の木。今は葉なんかありませんが、枝が道の方に伸びていて、すごいんですよ。みんな迷惑していまして、自治会でもあの桜の枝がまた折れたらどうするかって、話してるんですよ。」西日の中で、さっき立った埃がお茶の湯気と溶けている。なんと今日の自治会にはこの4人しか居なかった。
 急に自治会長が涼乃さんを見た「これから子育てして入学、小学校とかあると思うんですがね、あの桜の木が公園や通学路の途中にあって危険なんです。」視線を変えさせようと「はぁ」と言ってみた。こっちを見た自治会長が言葉を続ける。「その桜の木を育ててるのが竹田さんって言う人なんですが、枝を切って欲しいと言っても聞いてくれないんですよ。変わった人で、近所でも話題になっていますよって教えても、何というか、聞く耳を持たなくて。これはもう自治会でどうにかしたいって事になってですね、いままで何度も竹田さんの方にこちらも丁寧に、言っているんですが。もうそのー、竹田さんが無視するようになって。私が菓子折りとか回覧板とか、持ってインターホン押しても出てこないんですよ。宅配は出るのにですよ、変わってるんですよ。竹田さんは。自治会にも全然関わらないしお祭りにも来ないし、正直困ってるんです。」エアコンの風が長机に直撃している。
 「えーそうなんですか!」涼乃さんがやや大きな声で相槌をした。涼乃さんと長く過ごして分かってきたが、これはベタな言葉による反撃のようなものだった。さっきの子育て発言だと思う、しかしそれより前から自治会長との相容れなさは感じている所ではある。「自治会を代表して何度か竹田さんとお話をしていたんですがね?いつからかインターホンで答えてくれなくなりまして。回覧板とかね、自治会の代表という意味で話をする意味があったんですが、出てくれなくなって。それ以降、妻が私の代わりに行ったらお話してくれたりもしたんですが、桜の木の話を出すと感づいて、帰ってくれ。なんて言われたりしてね。」話がやっと見えてきたので「ああ…」と言ってしまう。
「桜の木を切る件を、あなたからお話してくれませんか。」なんて自治会だ。まだ問題の桜も見てないのに。
「まだその桜も拝見してませんし…」
「木がある竹田さん家は私の家の隣にありますから。集会所出た所からしっかり見えますよ。」なんてこった。ご近所トラブルに巻き込まれようとしてる。自治会長が椅子から立ち上がった以上、それについて行って集会所の外から木を見るしかなかった。涼乃さんとマサコさんは部屋に残っていた。
 赤茶色のスリッパから、履いてきたナイキに足を突っ込む間にも自治会長は喋り続ける。「大きな木なんでここからでも見えるんですよ。それくらい大きな問題って事です。」

 なだらかな山を住宅地にしたこの地域は、升目状に走った道路の間に二階建ての庭付きの戸建てが敷き詰められている。比較的高い位置にあるのが、今いる集会所と公園が一緒になった場所で、ここからコンクリートの階段とアスファルトの坂道が下っている。「そこです。黒い木がある。」自治会長の指さした場所は集会所から下って三軒目くらいの家だった。家と家の間から黒い木が生え、細い枝を道や隣の家に重ねている。「土田さん。竹田さんに、引っ越しの挨拶のついでで構いません、木の事、言っていただけませんか。」自治会長が王手をかけてきた。


 夕ご飯までに集会所の外で何を言われたかを話したかったのでそうした。涼乃さんはジップロックに入れたキュウリを棒で叩きながら聴いていた。ナムルにされる前のキュウリが明らかに粉々になり過ぎている。
「健悟さんはなんて答えたの?」しまった何も言ってこなかった。
「なんて答えたっけな。」ジップロックに乾燥した唐辛子とナムルの元が入った。調味料全部多い気がする。
「ま、でも、あんな空気じゃ断り辛すぎるね。健悟さんだし。」ナムルが冷蔵庫にしまわれた。なんとも言えない空気が漂う。


 鈴木健悟は夕日をカーテンで抑えながら言い出した。「でもつまり地域の新顔に、桜の木を切れって言ったんだなー、自治会長は。」冬の空気は塵が少なく、最も今が赤い夕焼けだった。家の中で土田涼乃が「言ってなくない?」と言葉を押さえる。「え?」鈴木健悟は弱っているように見えたが自治会長に「土田さん」と呼ばれた事を隠し通していた。だが実際それ以外はどうにもならず、集会所はつまらない時間だった。土田涼乃も初めに、「土田涼乃です。鈴木健悟です。」と言っていなかったことを思い出していた。





桜の木を切る


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