私のnoteは自分本位の感想文、あなたのnoteは心にはめる軍手のようなもの
みんなのフォトギャラリーで「自分本位」と検索したら、着ぐるみさんの上のイラストが出てきました。”自分”を棚の上に上げている図(笑)かわいすぎる♡
「自分中心」
「自己中心」
「自分勝手」
「自分本位」
今からここに書きはじめる、書こうと思っている記事のテーマに沿ったワードで検索し、イメージに合ったイラストを”みんフォト”で探すこと。
私がnoteのテキスト画面を開き、一番はじめにすることです。
こうして気軽に、しかも無料で素敵なイラストを使わせていただけることに本当に感謝!
着ぐるみさんの記事の内容も素敵だったのでぜひどうぞ。
「いやぁ、みんなそれぞれ好き勝手言ってんなぁ。」
湊かなえさんの『カケラ』を読んでいく過程で、最初から最後までずっと感じていたことです。
ネガティブな意味のジャッジではありません。
人間ってそんなもんだよね、結局みんな自分の立場でモノ見て感じて考えて、自分が得をすることはやっぱり嬉しいし、自分が損をすることは面白くない。
「自分本位」で世の中を見てしまうことを完璧になくすということは、不可能という言葉はあまり使いたくないけれど、人間にとっては不可能に近いよなぁと、それぞれ登場人物たちが語る「本音」をとてもありがたく読ませていただきました。
小説は作り物ではあるけれど、でも実際にそのように考える人は存在するだろうと感じる、ある意味ホンモノの、何も取り繕っていない正直な世界。
小説の中に描かれるあまりにも赤裸々な「本音」は、実際には思っていても、そのままの言葉ではnoteにはなかなか書けないだろうと思います。
noteは「本音」を語りやすい、本音を書いてもそれを否定するコメントは付きにくい場所ではありますが、だからといってそのまますべてをさらけ出せるわけではなく、また、書くとしても私自身かなり言葉を選びます。
『カケラ』は、主人公である美容外科医の橘久乃が、自死してしまった患者の関係者たちから、ひたすら話を聞いていくというストーリー展開。
久乃は完全に聞き役で、会話の中に存在するはずの久乃が語る言葉は一切出てこない。ただただ一方的に、その章に出てくる登場人物たちが、自分の感じたことを感じたままにしゃべりまくる。
私は小説を読み始めてまだ日が浅いです。この本は今まで出会ったことがない作風で、なんだかとても面白かった。
文庫本の最後に書かれた、久乃とおなじ”リアルな美人女医”である友利新さんの解説に、自分と違う感想を見つけて面白かった。
そこにあった言葉。
ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー
知らない言葉なのでググってみました。
「社会正義の実現を目指す人々」を指し、元々は肯定的な意味で使われていたけど、今はネガティブな表現とされているのか。
これは、私の好きな名言
この言葉が、まるで煽り文句のような、人を論破するための言葉のように使われるようになってしまったことと似ているのかな?
ひろゆきさんの言葉を、私に教えてくれたのは息子です。
息子に対して、なにかの注意をした際に返ってきた言葉。
「それってあなたの感想ですよね」
「そうだよ!その通り!!え?なにソレ?素晴らしい名言♡」と、息子の口からこの言葉がでたとき、とても感動したのを今でも覚えています。
私が正しいと思うことでも、あなたは違うと思うかもしれない。
同じものを見ても、それをどう思うのかは人によって違うよね。
それってあなたの感想ですよね?
あなたはそう思うんですね。
でも僕は、そうは思わないんだ。
そうやって、お互いに自分の気持ちを話していけたらいいよね。
全然違う人間同士が、それで少しでもわかりあえたら嬉しいね。
「スキ」のリアクションのひとつに選んでいる、本田晃一さんのこの言葉は、私の人生を変えてくれた名言のひとつです。
(前書き1600字💛全5300字+宣伝600字)
『カケラ』のストーリー展開。
一方的に自分の想いを好き勝手しゃべりまくる人たち。
私はこれを「noteと少し似てるなぁ」と思った(笑)
特に私なんて一記事5000字を超えるのが当たり前だから、それは読み手の皆さんが、ずっとずっと一方的に私の話を聞かされていることになる。
これが会話だったとしたなら「え?それってさ」とか「でもそれはさ」とか、途中で何かしら言いたくなることもあるだろうと思うのに、文章だとそれができない。
その代わりに、我慢ならなければ離脱は自由なのがネットのいいところ。
いつも私の長い話を聞いていただき、本当にありがとうございます。
ケンカをしたときに、自分の想いを誤解なく伝えたいと思っているのに、相手が最後まで黙って聞いてくれることはほとんどない。
相手だって自分の正義があるから、一方的に聞かされ続けることに我慢がならず、ついつい途中で「それは違うって!」とか色々と口を挟みたくなる。お互いに。
自分の言いたいことも伝わらず、相手の言いたいことも伝わりづらい状況のできあがり。
私はもともと文章を書くのがすごく苦手だったけれど、こうして「書くこと」を始めてからというもの、自分の気持ちを伝える手段として、今度は逆に「話すこと」が苦手だと感じるようになってしまった。
私は頭の回転があまり早い人間ではなく、よーくよーく考えないと、自分の気持ちをしっかりと言語化し伝えることができない。
しかも、いつも読んで下さる皆さんはご存じのとおり、私は自分の言いたいことを短い文章にまとめて話すことができない。
もし相手が聞く耳を持ち、私に存分に話す時間をくれたとしても、頭の中だけではうまく整理ができず「あれ?いま何の話をしてたっけ?何が言いたいのかわからなくなっちゃった」というタイプ。
そして『カケラ』の登場人物たちと同じように、「自分勝手に好き勝手言いたいこと言ってんなぁ」と思われるくらいには、しっかりと「失言」してしまう自信がある。
noteには結局のところ、よーくよーく考えて、できる限り「失言」をなくす努力をして、自分の文章をじっくりと何度も読み直し、私なりに人に伝わりやすく整理した「私の自分勝手な感想文」を書いている。
どれだけ色んなことに理解を示したつもりでも、人を傷つけないように配慮したつもりでも、自分の考えを書くってことは、どこまでいっても「自分本位の感想文」であることに変わりはないなと思う。
でも私は、この「自分本位の感想文」をここに書かせてもらえることや、誰かに読んでもらえることがとても嬉しいし、また、他の人が書いた「自分本位の感想文」を読むことも大好きだ。
お互い完全には理解し合えない、わかりあえない同士ではあるけれど、こういった対話を、人を傷つけることを最低限に抑えながら、noteの世界では存分に楽しむことができると私は思っている。
「あなたの感想」を聞かせてもらうというのが対話のはじまり。
自分本位の感想文バンザイ(/・ω・)/
自分とトコトン向き合うための質問を、これでもかと投げかけてくる劇場支配人のお話。
自分と向き合うという行為は、自分なりの幸せをつかむために必要不可欠なものであり、noteにはそのキッカケをくれる支配人が、「自分本位の感想文」というカタチで数多く存在する。
「出会えれば誰もがしあわせになれる」と言われる、不思議な劇場
このnoteが、そんな場所だと私は本気で思っている。
💛
noterさんから教えてもらった『違国日記』
みんなそれぞれ、心の中では違う国に住んでいる。
同じ日本語で話していても、言ってる意味が伝わらないってことはよくあることだ。
この『違国日記』は、「これは私の物語だ」と共感する方がとても多いらしいが、私にとってはここに出てくる登場人物たちが『違国』の人で、「そんな考え方もあるのか!」と、驚かされることが多い。
これは私にとって、小説でいう朝井リョウさんの世界。
朝井リョウさんの描く世界観も、「わかるわかる」とはならないけれど、魅力的な表現が多く、そして私の知らない世界をみせてくれる、とにかく名言だらけで一冊読んだだけでとりこになってしまった。
『違国日記』の著者ヤマシタトモコさんにも同じものを感じる。
中でも印象深いのが、小説・漫画も読まない、映画にも興味がないという登場人物(弁護士の塔野先生)に対し、主人公の槙生ちゃんが「物語を必要としない人がいるなんて新鮮だ」と驚くシーン。
物語を……必要と……する??
私にとっては、槙生ちゃんの「物語を必要とする」という言葉の方がものすごく斬新で驚きだった。
塔野先生が槙生ちゃんに「なぜ物語が必要だったのか?」と尋ねると、「物語は、かくまってくれる友人だった」「違う国に連れてってくれるような」と槙生ちゃんは答える。
それに対し塔野先生が「私にとっては勉強がそういうものだった」と返すシーンを見て考える。
私は塔野先生と同じように「物語を必要としない人間」だったが、塔野先生と違い、それにかわる勉強のようなものが何もなかったと気づく。
違う国に連れてってくれるような……か。
そもそも「違う国」に興味がなかった。どこまで行っても、自分以外に興味のない、さらには学びも成長も自分には必要ない、ひたすら「無関心」を貫き通していたのが私なんだなぁと、改めて気づかされた気がした。
無関心と言っても、世の中に対しては、人一倍強い不満を抱いていたけれど。
自分が「変わる」「成長する」ことには無関心だったが、世の中や他人には、自分の都合のいいように「変わる」ことをいつも求めていた。
自分の考えが常に正しく、私の考えと違うものは間違っていると感じ、そのようにしか世の中をみられなかった私は、いま思えばそれなりに生きづらかった。
みんな「違国」に住んでいるんだから、まったく同じ考えの人などいないのだから、その「違い」を認めることができないということは、世の中全てが「敵」だらけ。
このコロナ禍で一番生きづらさを感じてきたのは、昔の私とおなじ「生きづらさ」を抱えた人たちだったのではないかとさえ思う。
「あいつは間違っている!」
「なんで〇〇しないんだ!」
自分の価値観で人をジャッジし、怒りと憎しみの感情を持ち続けることは本当に辛い。
「違う国」に興味を持ち、様々な考え方に触れ、少しずつ広い視点で世の中をみることができるようになってきたことが、私のそんな生きづらさを解消してくれた。
「こんな考え方もあるんだな、こんなモノの見方もあるんだな」
それぞれ「違国」に住む人たちの「自分本位の感想文」が、私がジャッジの世界に戻ろうとしてしまうのを、今も引き留め続けてくれている。
私が他者の「自分本位の感想文」を求める理由。
それを見事に言語化してくれた、ヨシタケシンスケさんの言葉を紹介したいと思う。
小説『カケラ』に描かれていた「好き勝手言ってんなぁ」のおしゃべりも、noteのタイムラインに流れている「自分本位の感想文」も、私にとってはヨシタケシンスケさんのいう”心にはめる軍手”そのものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
🐸宣伝🐸
前回書いた記事「理解することされること」
5/21以降有料化に伴い、袋とじでしか投稿できない”オマケ”を追記しました。
昨年、我が家にコロナがやってきたとき、私と夫の間で大喧嘩が勃発しました。
その大喧嘩のあとに、私が夫に宛てた手紙(メール)全文です。(加筆修正一切なし)
そのメールはこの記事と同様に、私視点の勝手な「自分本位の感想文」。
犬も食わない夫婦喧嘩の話ではありますが、ここにはとてもわかりやすい夫・妻側の視点という、あちら側とこちら側が存在します。
個人的なメールの内容なので、普段のnote記事よりもジャッジポイントもありまくりだと思います。(なので無料で一般公開はできません💦)
「わたしからあなたへ」ではなく、noteの記事のように書いた夫へのメッセージ。
生々しい夫婦喧嘩の、妻視点で書かれた「自分本位の感想文」を、どちら寄りの視点で眺めるのか?
どちら寄りでなくとも「あなた寄り」だと思いますが、興味を持っていただける方がいらっしゃったら、ぜひお立ち寄りいただけたら嬉しく思います。
メール本文は5000字強🤣
話の長い女ですみません。
既婚男性のみなさま、奥さんからこんな長いメールが届いたら、ちゃんと最後まで真剣に読んでくれますか?
それとも引きますか?