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違和感を理論なしに愛する世界のこと

私は、自分が所属するある組織が好きなんです。
なぜか?それは「違和感」を、理論なしに愛する世界だから。みんな少しずつおかしくても、そんな誰もを受け入れる世界。

言葉なしに受け入れたいものがある。
それに言及するのはナンセンスだと思う。

所属するその組織は否応なく代替わりを迎えて、トップが変わって、変わってしまうものが私の大切なものじゃないといい。この組織が、何も考えなくても自然に違和感を愛する組織であり続ければいい。

きっと変わった後の組織も、違和感を積極的に排除する空間になるなんてことはないと思う。けど私は、違和感となりうる何かを意図せず排除してしまう空間になってしまう可能性はあるように感じる。例えば「違和感」を定義したら、それは排除とほぼ同義なんだよ、多分。

これは国語の言語学とかの分野だと思うんだけれど、言葉を定義するというのは「線を引く」行為で、何かを分類するとき、言葉が生まれる。何かにAと名付けたら、理論的にはすべての物が、AであるものとAでないものに分類される。だから私は「愛」とかを定義するのもあんまり進んでやりたくはない。だって、この世に愛だと思ったのに実は定義に照らすと愛じゃないものがあったらちょっと寂しいから。

それはどの組織においても「私が全体を束ねる人間である」ということが負けであることと、ほぼ同じことだ。全体の雰囲気を担ってしまう人間は、きっと作業効率なんかで選ばれてはいけない。こんな、私みたいな、理論を味方にする人がなってはいけないんだよ。いや、感情に動かされすぎる人もだめだ。とにかく、作業の上手い下手では一切ダメ。そこにいるだけで、そこにいるという空気に意味があるんじゃなきゃいけないと思うんだ、それが、一番大事だと。

だってそうじゃないとその場所は何かを、きっと知らずのうちに排斥してしまうから。私とか、それに準ずる人が上に立ってしまうと、「それはそう」すぎて、なんというか、そこにあるべき影が、消えることを強要されてしまう。「違和感」の存在を見逃してしまう気がするんですよ。
それで、私なんかじゃない、私に準ずる人でもない、私ではどうにも追いつけないというか、なることができないような人が上に立つ組織だからこそ、こういう、お風呂で言ったら40度くらいのお風呂(組織)なんじゃないのかな。ぬるま湯って言ったら悪い意味が含まれちゃうから、あえて温度で例えることにするね。

私はそんなこと言っても必要性を感じれば上に立つけど、できれば私じゃない人が、私が理想とする人が上に立つ組織を愛したいなあ

正しくないことを、正しくないとわかったままで愛したい。それができるひとが一番上にいたから、私はこの組織を愛していたんだよなあ

まあ往々にして人間は、いや私は、変化を嫌う生き物なので仕方がない。

数か月先の私へ。居場所がどんな色になっても、私が受け入れてもらえたその組織で、どうか誰かを受け入れない理由にはならないでください

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