「違い」こそが世界平和の鍵

お久しぶりです。
Sui marinaです

久しぶりにNoteを開いている

今日はとても大きな気づきがあったのでシェアさせてもらう。

最近私の中に無視できない大きな違和感が渦巻いていた

それは魔物のようで
時に襲ってくる

「統一」することへの恐怖だ。

私は共感力がとても高く
人と話していると何でもかんでも共感してしまう癖がある

多方面の視点になれるが故・・・

しかしSNSを開いた途端に
情報が滝のように押し寄せてくる

「同じ」であることの安心

近頃SNSでよく目にするの
意識高い系、スピリチュアル系、自己啓発系

これが悪い これは良い
〇〇の人は〇〇

このような言葉や情報を目にするたびに
僕の中に違和感が芽生えていた。

こういう正しい情報に感化されて
自分を高めることは
素晴らしいことだと思うが

そうでない人たち
間違っている人たちを
ジャッジし始めると
話は変わってくる

善悪という物差しで世界を見れば
ヒーローとヒール役が生まれるが
必要悪で
この世にあるものは
全て存在してよくて存在している

結局、比較対象がいて初めて、自分を知れるから
「違う」ことはなんら問題がないことだ

自分と違う人たちに対して
自分の価値観を押し付けることはどうも心地よくない

次第に僕は違い”美”を見出すようになった。

この世にはたくさんの人がいて
幸せの感じ方も価値観も本当に違う

共感し合うことは素敵なことだが
みんなが同じような考えになって
同じように言葉を話すようになったら
確実につまらないだろう

一見、美しくないかもしれない過激な表現をするアーティストも
まだ世界にない自分だけの言葉や作品を生み出していることに”美”を見出しているのではないだろうか。

僕は他人がどんな世界線で生きるか
否定できるわけがない・・・

ただ、一つ言えるのは
「同じ」であることが先行すると争いが生まれることだ

人間が同じジャンルごとに分類されていくような感覚は
どことなく気持ち悪い

しかし皆違って皆いい
このように「違い」が先行することで生まれるのは理解共感

例えば、自分と違う人たちを否定することは簡単だ
自分と同じ人を肯定することも容易だろう

しかし本当に自分と違う人と話してみると
めちゃくちゃ自分の世界が広がる

比較ができるからこそ、自分のことよりを知れる

いつしか僕の中には、統一され
小さな正解に押し込められることへの恐怖が確かに生まれていた

リアルとのギャップ

しかし実際の目の前に広がる世界は平和だった

僕の大好きな人たちとの幸せな時間
そこにはタイプもジャンルも存在していない

好きなものを食べたり
行きたいところ行ったり

僕は結局、好きな人が好きだ

どんな格好しようが
何を食べようが
その時間が幸せだ

しかし大人になるにつれ
言葉は達者になり
会話は巧妙になっていく・・・

職業病などもあるだろう。

これが良い・これが悪いなどの話題がでた途端
僕は咄嗟に違和感を覚える

なぜ、僕はこれについて「嫌だ」と考えるのだろう?

そんな疑問が湧いてきた。

幸いなことに
多角的な視点で物事を見て
見解を広げられる研究仲間がいる

僕らは違和感の研究を始めた

まず僕たちは自分の中にある「違和感」をビーカーの中に入れる

それをプレパラートに挟んで、顕微鏡をのぞいた。

分析した結果、僕らはいくつかのことに気づいた

二元論への違和感の結論

「良い」「悪い」と言った
学術的ソースを伴った情報は結果、一つの答え(方向性)に向かうしかない

しかし「好き」「嫌い」となると
それは単に個人の個性好みとなる

正解のない世界
まさにアートのようだ

答えのない世界が僕は大好きなんだ

ここからは完全に好みの話。

この世には2つのエネルギーの流れがあって
右回りの「締め付ける」「閉じていく」「閉鎖的な」エネルギー
↔︎左回りの「開け放つ」「開いていく」「解放的」エネルギー

僕らは自己を解放するため自由になるために地球に生まれてきた

統一するために生まれたんじゃない
だってここは地球だ

元々宇宙ではワンネスで1つだった
わざわざ分離してきたのは、
個々人がやりたいことを思う存分やって楽しむため
(もちろん人に迷惑をかけない範囲で)

そう考える僕は解放的エネルギー

学術的なソースに基づいた
もしくは今までの社会に準えた
正解のある方向ではなく

どんな正解も有りな可能性溢れる地球を生きようじゃないか

そう思えた。

僕がいるのは
違いを認め合える
より自由度の高い道

外側と内側

外から取り入れるもの↔︎自分の中から湧き出るもの

外側の見かけ↔︎内側の中身

どこにフォーカスを当てるかで
見える世界は全く違うんだろうなぁ

もちろん、どちらが良い悪いはない
あるのは好みだけ

どちらも大切でバランスや中道は好きだなと思う

そしていつしか僕は話し方を変えた

僕はこれが好き・僕はこれが嫌い
やりたい・いやだ・ごめんなさい・ありがとう

そのほうが相手を否定しなくて済むから
よっぽど良い!

SNSをのぞいた瞬間
エゴや押し付けを一気に浴びてしまう時もある、
とっさに僕は画面を閉じる。

もう考えすぎるのはやめよう

目の前にいるその人が
僕の知ってるその人なはずだから・・・

商業的情報のまやかし

自分の好き・嫌いがあるのは当然

しかし自分の基準で相手を測り出したら危険信号なのかもしれない・・・

裏側の意図を見透かせば
その真意にたどり着く

発信者がお金儲けをするための情報
正直SNSはこれで溢れている


今のあなたは不十分
なぜなら〇〇だから
〇〇は身体に良い
だからこれを購入すれば
あなたは今よりも良くなれる!

よくある販売手法だ。

化粧品メーカーだったら

肌年齢を診断し
今のあなたは50歳です
この商品を使えば20歳まで若返りますよ!

買わないと!やらないと!
今の自分ではダメなんだ!と思わせるのが
販売の手法の主流なのだ(商学部ビジネス学科)

保険屋さんであれば
近頃はかなり巧妙に

無料で今の保険に無駄がないかチェックさせてください
チェックしたら、かなり多く支払っていますので
弊社ならば、もっと安くて良いプランがあります
こちらに変更しませんか?

お客様の喉から手が出るほど欲しいと思わせる

携帯会社も近し

まぁこの世の情報はそんな商業的メッセージで溢れている

こんなの当たり前すぎるが・・・
飽きているw

今世、僕は宇宙への案内人をしている
を売る世界には生きていない

僕の存在自体が半透明でである

今だって。
文章や音は物質ではない

魂がやってるお志事とでも言える

宇宙のお志事は面白い
この地球のためになったり
他者のためになったりすることで
本当にお金がどこからともなく降ってくるのだから。

なんとまぁ有難いことか。

まとめ

知ることで自分の固定概念が破壊されて、許容が広がることもあれば
学ぶことで自分の固定概念を創り出し、許容が狭まることもある・・・

僕たち日本人はしっかりと洗脳教育を受けてきた
すぐ凸凹を平らにしようとする

これが僕が感じていた
無意識的な統一への恐怖の根源

何度も言っているが
みんな自分自神であることを想い出せば
不必要に情報を外から取り込む必要などない

誰かに従ったりする必要もない

ポテンシャルは貴方の中にすでに存在しているのだ

外側ばかりが見えているだけ。

僕の考える新時代の教育


僕が大切にしているのは遊び心探究心、理解力だ!

遊び心
子供の頃の純粋な想像力、発想力で思いっきり自分遊びするんだ!

探究心
興味を持った分野、疑問を持ったことを自分なりの答えが出るまで
存分に深掘りするんだ!その道は必ず開ける!

理解力
自分と違う人間を尊重し理解するんだ
裏の意図や真意まで考えれるようになるんだ
そうすれば違いこそが美しいとわかるようになるできる

正しいか間違っているかは一切必要ない




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