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あなたのそれは呪か祝か。

呪術廻戦、2期め(?)のやつ観たー。
作画がすごいー。動き、カメラワークもすごいー。

アクション系が入るアニメを観ると思うのが、撮影許可とか、撮影用の車の費用とか掛からないのがすばらしい。キャラクターの怪我、安全対策も必要ない…(もはや怪我っていうか死)。
あ、もちろん何よりそれらを描けることがすばらしい。アニメってすごい。

でも、調べるとアニメーターさんもあまり収入が高くないらしく。
高いとしても、作画枚数が半端ない=労働時間は長い
のかなぁ、と考えた時、映画の時も思うんですけど、文化だのエンタメだのって最前線は人を酷使するわけですよね(状況的にそうなる)。
それがちゃんとした会社なら確定申告とか、年金、社会保障、労務管理、入院時の休業補償、云々…まで、所属している限りにおいては他部署がやってくれると思うのですが、フリーランスも多い業界だとすると、そこがしんどいのかな…だから持続の未来が描きづらいのかな…などと余計なことを考えるこの頃。
分業制度というのは、結局お金(資本)があれば他者に依頼できる仕組み…

若ければ何でもできるのかな…いやでも、今の色んな仕組みって、複雑すぎてどうなんですかね…労力が労力でしかないとき、都合で切り捨ててきたのがこの社会ですよね…そう思うと、文化とは、エンタメとは、と思います。
ハラスメント云々以前の夢のなさが、そこにはしっかりあると思うんです。なぜなら1~10まで人間のやってることだから。人間に依存していることだから。人間を生きること自体に夢がないから(ないって言い切るのはどうかと思う)。

もういい加減、それを隠すより、妙な美化をするより、お金の話を汚い扱いせず、すごい事をしているからたくさんお金がもらえるんだ!くらいの夢をみさせてくれる仕組み…なんか、できないのかなぁ🤔
実際一枚絵ですら、ちんたらもったらしながら描く身としては、アニメってほんとすごいと思うんですけども(音、声含む)。

ストーリーの話で言うと、人間の醜さも描かれてて個人的に好きですが、なんというかこれを鵜呑みにしたらしたで色々考えるところがあって、興味深いです。

呪いについて書かれている本は最近いろいろあって、ざっくり認識としては「潜在意識に働きかける言葉」みたいな感じも含むかと思うんですけど。
これ、なんというか、うーん。
日常生活、子育て、そういう圏内での話として書かれた本を多く見かける気がするんですけど、個人的に思うのが、何より「マスメディアによって垂れ流された呪い」、これに勝る呪いってあんまりなくないですか。
でも、それに触れてる本をあまり見ない。
(…広告関係の研究分野に私が触れたことがないから、というだけかもしれない)。
CM然り、戦前にマスメディアが戦意高揚に協力したの然り、正に呪いだと思うんですけども。他者による誘導的価値観の刷り込み。
体育会系にだって、科学にだって呪いは潜む。なぜなら人間は言葉を使ってコミュニケーションをするから。言葉を使わなかったとしても、前提としてコミュニケーションがあるから(それが一切適わない場合は予め社会から排除しがち)。

でも、皆が皆、呪われた自覚を持つわけではない、のは、選択権が(まだ)自分にはあると思うから。操作される(利用される)ストレスを感じなければ気にならない。
この辺は洗脳の手口をちゃんと知らないとなんとも言えないんですけど。
でも、この「自分で選んだ」ことにする(つもりにさせる)ことこそ、洗脳や詐欺の大前提で…。
あ、なんかマスメディアや言語コミュニケーションを悪者にしようとかって話ではなく。身近にある例として挙げてます。

それこそ文化圏、エンタメ界隈。
昔から、サスペンスドラマでも推理小説でもなんでも、散々人が人を殺すものを描いてきて、録って、描いて、書いて、流して、読んで、受けて、受けて、受け取って、受け取り続けた私たちが、何も呪われてない(潜在意識化に無影響)なんてことなどあるのでしょうか🤔
いや、でも、私たちは人殺しになってないから無問題じゃん、ていうなら、それも疑問で。

実際のニュースで、実際に人が死んでいることで、まず犯人がどういう人かを流し、どういう事情があったのか推理するためのような情報を流し、時に文集で書いたことまで流し、周りの人の心象を流し、場合によって「じゃあ殺しても(殺されても)仕方がない」みたいな結論まで、半ば自動的に出してませんかね。その情報ハブとしてのメディア、時にSNSなど、自分で検証するでもなく、何の疑いもなく信じてませんかね。
見知らぬ他人、一生関わらなかった他人に対して憎悪を抱いたことが決してないと言えるのですかね。私は思いっきりあります。ありありです。
(現実とニュースの区別もついてないのかよ、状態です)。
でも、そんな自分を気持ち悪い、終わってんな、と思って、自分の方に刃を向け続けた結果、他人は他人と思えるようになってきましたが。
まだわからないです。頭を使う、自分で知ろうとする、自分の偏見の根を探る、過信を疑う、ぜんぶしんどい😭

そのくせ身近なところのハラスメントやいじめ、社会保障の行き届かなさ、差別など、死に至るまえの予兆があったとしても、まだ死んでないんだから大丈夫なんでしょ、って切り捨ててませんかね。
いざ自分が巻き込まれたり関わらなきゃいけないのは面倒くさいと、見て見ぬふりをしてませんかね。自分以外の命の優先順位をだいぶ下に、先にしてませんかね。
私はしてます。というか、私がしてます。私はずっと私の話をしています。

していると自覚するようにしたら、罪悪感で死にたくなりますが、まぁでも、それも冷静になれば、一番罪悪感を抱いて欲しいのは、それを起こした(加害側の)当人で。でも、その当人にも事情があったとしたら、その人がそこに至ってしまうような社会の仕組みがあったら、それを改善するために自分は何かできないのか、を考える。
なにより、悲劇的な出来事であるほど「二度と起こさない」ために、考える。同じ社会に居合わせた者として。
二度と「起こさない」。二度と「起こりませんように(願望)」だと、弱い。から、起こさないために「動く」、これが一番現実への作用として強い、と思います。言語化も強い。記録は強い。しかしそれも操作できるようになった世の中。ハードモード😭

つまり、行動レベルに落とし込まない限り、どこまでいっても情報は情報のままで、願望は願望のままで、人間が(自分が)そこで生き死にしている実感が持てないというか。自分自身を例にすると、ずっと呪われっぱなしのような気がするんですよね。他人の言葉を生きてしまう。
どうなんですかね。
その呪いと同化するように生きてしまう。呪詛をばらまく側になる。
(私の過去のnoteのどこかに、それっぽいのがあった気がする。呪詛呪詛しいやつ)。

夏油さんは…はっ、ネタバレ注意です。


夏油さんは、非術師を猿と呼んで破壊する方に行ったけど、猿であろうとなかろうと、つまり生きている価値、意味、自分に、お互いに、それぞれに、誰がどれだけ見出しているんですかね。この社会。

きっとこういうことを言い出せば、いや、あれは「つくりもの」だから。あれは「漫画」だから。あれは「アニメ」だから。
「混同させるやつの頭がおかしいんだよ」と言うと思うんです。
私の脳内の世間は。

でも、それをいう人はどれだけ、そこ(ニュース・報道の先)にあるのが「現実」だから、「現実の痛み」だから、「現実の苦しみ」だから、どうにかしたい、どうにかしなきゃ、なにかしなきゃ、だって自分のこの場所(命)と地続きだ、って、思うんですかね。思って、動くんですかね。
どれだけの人が一時の消費で終わらずにいられるんだろう。
結局、つくりものだろうが、現実だろうが、それが自分に降りかかってない限り、直接関係ない限りはどうでもいい、何を言ってもいい、と思える人こそが、リアルを生きている、ってことになるんでしょうかね。
(でありながら、実写映画にはより「リアル」な「つくりもの」を求める…生きているリアル(俳優部)を使いながら…根本的に、アニメと実写の土俵が違うと感じるのはそこかもしれない)。

※これを読んで自分が責められているように感じる人がいるかもしれないので書いておくと、これは私が自分に向けたことのある刃なだけで、見知らぬ他人に私が向ける刃じゃないです。そんなことを一人でやるのが哲学なのではないかと勝手に思っています。でもこれこそが「言語化→その言葉を読む→内面に取り込む(内面化させる、自分が言われているかのような気持ちにさせる)→呪になる」っいうことかなと思います。
※個人的な対処法としては、名指しされていない呪いは基本受け取らなくていいと思います。これを取り込み過ぎるのが自意識過剰(私)。

これをジャニーズの件とつなげるのもあれなんですけど。
「エンタメ」だから楽しんだだけ、「楽しませてくれた」タレントに罪はない。それは、そうだなと思うんです。
けど、それと同時に「苦しんだ人がそこにいる(いた)」って、同時に実感として持てないものなのですかね…感情ってそんなに単色なんだろうか。
生きるって普通に矛盾まみれじゃないですか。
…これも責めたいわけじゃなく、そこにある「不安」ってなんなんだろう、と、自分で思います。
罪悪感を持ちたくない、とか。

でも、この前書いたように、私は生き物を食べて生きている。
自分で殺してないだけで、他の人が生計を立てるため、もしくは家業として、生き物を育て、屠畜し、衛生管理して、時に調理までしてくれたものを食べている。
それでも平気で牛や豚を「かわいい」と思う。
こんなクソみたいな二重構造を日頃平気で生きているのに、いまさらなんの罪悪感なんだろう。

ウクライナの人を思い遣っているフリをしながら、小麦や食料品の物価が高騰すれば「厳しいなぁ…」と弱音を漏らす。本音の比重でいえばきっと後半の方が高い。
でも、同時に持ててしまう。
優しさと自分勝手さと醜さは同時にこの中にある。ちゃんとある。
絶対にある。私の中には崇高じゃない悪もちゃんとある。狡さも醜さも打算もちゃんとある。

人を責めることもある。
その矛盾に何度だって引き裂かれて、生きている価値なんてよくわからない。でも生きる。生きているから生きる。生きているなう。

意味は後付け。意味のためには生きていない。
現時点でわかる意味だけに縛られる必要がない。

でも、人間が人間を殺すことに関して、理由があるなら仕方ないって言い続けてきたこの国(主語でか)の想像が足りていないと思うのはそこで。
(つくりものでは散々見ているのに想像力が育たない…?逆に、殺人が表現されすぎてるのかなぁ…)。
それ(殺意)を他人が自分に向けることは、理由があろうとなかろうと嫌だと思ってる。だから「仕方ない」には、他者を差し出す構図がセットになっている。
生贄ありきの「仕方ない(保身)」。これが私(否行動者・保身者)を加害者・もしくは加担者にする。
傍観が無罪じゃないと思う理由。だってこの構図が何度繰り返されたことか。歴史を見るまでもない。今更エンタメにするまでもないくらい、日常に溢れている。
いい加減、それで何も学んでないなら、その愚かさはもはや加害なんじゃないかと、自分に対して思う。
でも、実際には、わりとマイノリティで底辺で、単純に切り捨てられる側なんだけど(笑)。笑えん。でも笑っとこ。

長々書きすぎた。
この辺で反転術式。
神道における詔(みことのり)、言祝ぐって、神を、神の与えてくれたものを大和言葉で褒め讃えてるんじゃなかったでしたっけ。たしか。ちゃんと調べると違うかもしれない。
とにかく、その考えは好きで。

あらゆるエンタメ、あらゆる文化、人の死、醜さ、悪、そういうのがいくらでも登場し、なんなら時にかっこよく描かれてきて、それに勝つのが正義なのかと、自分に問うてみる。問うてみたことがある。
でも、違うと思う。
私が悪と断じたその人と、私の生まれた環境を入れ替えて想像したとき、そこに立っているのは私かもしれないと思う。
そのくらい、私の「善」は確固たるものではない、と思っている。
ただ「そこ」に「その人」として生まれなかっただけ、生きなかっただけだと思う。
だから私がいまここで、特に犯罪も起こさず生きれているのは、全部運なんだと思う。いや、ほぼ運。多少自分も動いたけど。これからはわからないけど。

で、万万が一、私のなにかを羨ましいとか、すごいとか、いいなぁと思う人がいたら、そんな私(運野郎)が言えるのは「私以上のことをあなたも絶対にできる」し、「私以上のものがあなたにも絶対にある」ということで。
それは、私とあなたが「違う」からこそなのだと、確信をもって言える。

「あなたと私」が「違う」って…よくいえば孤独、わるくいっても孤独、にどこかでならないと、言えないことかもしれない。
自分の尿意も苦しみも、人に代わってもらうことはできない。
それをこの歳になるまで気づかなかった私は、やはりそんなに賢くないと思う。夏油さんにいわせれば、猿なのです。いや、まぁでも、猿を見下したことないし。それはそれでいい。来世は人間以外がいい。人間を生きるのはもう、こういうことを考えるくらいだもの…もういい(笑)。しんどい。

だからこそ思う。生きている人はすごい(本気)。
生きてこんな要領を得ない長文を読んでいるあなたは、とてもすごい。
ありがとうございます。

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