
くすみカラーより愛を込めて。
先日は、なんだか荒れ散らかした狂った記事を書きまして、お目汚し大変失礼致しました(わりといつもなのでは)。
…わりといつもなのでは…(二度言う)。
「その生きづらさ、発達性トラウマ? ポリヴェーガル理論で考える解放のヒント」(春秋社 花丘ちぐささん著)
という本がちょうど手元にあったので、ぱらぱら読み進めて(まだ途中ですけども)なんか、我知らず狂ってるのって案外普通なのかもしれない…と思い、おかげさまで冷静を取り戻しています。大丈夫、みんな狂ってる(なんかこの落ち着き方も間違ってる気はする)。
冷静になったぶん、前回書いた内容で傷つけたかもしれない、二次元(やカメコ)として若年層に萌える…あえて、萌えという語を選ぶのはズルさと承知…方達に言い訳をしたいと思います。
このまえは、流れ弾的に全否定してしまってすみません。
というのも、想像することと、実際に行う事には雲泥の差がある、というのは、私自身がとてもよく知っているからです。
前回の記事、私の暴力性、破壊衝動などが垣間見えておりましたが、振り返れば一番荒れ狂っていたのは小学生の頃でした。
武勇伝を語りたいとかではないですし、武勇じゃないので詳細は割愛しますが、とにかく、暴言を吐くのと、実際に人を傷つけるのは違う。
私は、それを散々反省してきたつもりでいたのに、またやってしまったなと思いました。
希死念慮をこうした場所で晒すのも、やはり同様に暴力的な言動だと、今は冷静に考えられます。
(でも、他の辛い状況にある方がそう思ってしまったり、それを吐露するアカウントをつくったり、そこに書くこと自体は一切否定しません)。
自分を傷つける自虐的な言動を見せるのも、ある意味で面前DVに該当するなぁと思います。
誰にとってかというと、私を思ってくれる人に対してです。
そんな人おらんぞ、とかいうツッコミは、一応受け取って玉入れの籠に入れておきます。キャッチアンドリリース。
仮にいないなら、その役割も自分がまず請け負ってあげないといけない。
なんでかというと、自分は自分から逃れられないから。
逆に言うと、自分には自分を育てる義務がある。
これが重い。でも、それを放棄せざるを得ない場所までは、幸い、まだまだ遠い場所に居させてもらっている、と思います。
で、読み始めた本と、ネット上で見たPTSDの症状みたいなものが、自分と一致するところもあったので、原因が分かったなら、傾向と対策。改善と実施。味わいも情緒もないですが、ポンコツ気味なのでしょうがない。
生きて実行あるのみです。えいおー( ´ω` )ノ
で、小児性愛に関してはそういった事情により敵視してしまうことが正直あるのですが、二次元とかJCにハァハァとか萌え萌えとかしてしまう心理に関しては、オタクを内面化しまくったので、わからなくもなく。
(というか私がJCの頃にも今ほど問題視もされず実在しまくっていたし)。
その点も自己弁護じゃなくて、自己分解、そこから社会とどうつながるかを検討したいと思い、筆を執った次第です。
※PCで書いているのにこの表現もどうなのか。
タイムリーに撮影会の話も上がっていて、この流れから、一部で鬱憤を煮詰めたような怒りが爆発しないか気がかりでもある、というのもあります。
なんでもそうですが、まず落ち着いて対処したい…そう思います(自省)。
・フェミ対オタク(ロリ)みたいな構図
まず、この構図自体ここ数年何度も見ましたが、フェミ的な素養を持ちつつもそこまでしっかりは学んでおらず、かつオタクと名乗るにはちょっと薄いけどオタクマインドのある私は、いつもこの構図の中で立ち位置が定まりません。
であるならば、お互いのぶつけ合う不安を、石を、せめて雪玉くらいにできないだろうかと思っています。無理かも。とりあえず。
(詳細をちゃんと見ればオタクじゃなくて表自だとか、ツイフェミだとか色々ツッコミ満載かもしれませんが、そこまでちゃんとした記事じゃない)。
・フェミって誰
フェミ憎しが先だって、女性の権利を語ればどいつもこいつもフェミラベルみたいになっておりますが、そもそも、まずラベルを貼ってから的にする、みたいなやり方が、普通にフェアでもなんでもないのでやめたい。
・弱者男性(仮)を馬鹿にするのもよくない
弱者男性というラベリング自体、なんか失礼だと私は思います。でも、自分がそうなだけで、他の方がそうなのかは分かりませんけれども、自分の劣等感を刺激する言葉って、自分が言われているような気持ちになり、知らず知らず自分でその属性を背負っていってしまう気がします。
・法律、契約の話と、実際のエロ表現云々
今回の撮影会に関して、たぶん、ちゃんと検証するとまた話が違うんだと思いますが、既存の世論形成のされ方って、検証云々ではないといいますか。
であるからこそ、消費されて終わっていく、とも思うので、どなたかがちゃんと検証するの待ち…(そこで第一線に躍り出る調査・検証能力はない)。
・エロ表現への規制
私の過去の記事などを見ていると、エロ表現反対派みたいに見えるかもしれませんが(?)、反対してないです。というか、父を生かしていたものが、結果どうであれ仕事と、他者の供給するエロ表現だったので、一概に否定するつもりがないです。R18指定のマンガを描いている友人もいて、その友人が私よりちゃんとした人間であることも大きいです。
他でも言われている通り、ゾーニングと、実際の被害に対する予防措置、救済措置の法(教育)整備が必要と思います。
※ここに対しては実際に、自分でできる範囲で動きます。
・対象年齢
でも、その表象の対象とするもの、搾取対象の年齢は下がり続け、またそれが肯定され続けていることに関しては懸念を隠しません。
薄い本界隈ではいくらでも見てきましたが、東方であれば人間じゃないことを理由に、艦これであれば人間じゃないことを理由に、ぬるっと許容してきているところがあり…ジャンルがちょっと古いでしょうか。すみません。なんというか、設定次第という設定、みたいなものが現実を侵食しているといいますか。そういうのは怖いです。
・AI
本物(生体)を搾取しないことを言い訳に、ぼかした搾取(AIでいえばデータ利用)や性売買、サービスは肯定され続けて、人体実験とか人身売買もそうですけど、人権を主体とした法整備は何にでも必要だと思っておりますし、デジタルの分野でもそうですけれども、日本は圧倒的にその辺りが遅いと思っています。
・そういう辺りを有耶無耶にするプロレス構造
そういう時に、なんだかエロ表現の自由が脅かされてる!みたいな恐怖を煽って(恐怖でしょう。だって大好きなんだから)、敵対構造をつくるのは、それで利益を得ている層の思う壺なので、壺はもういいよジャパン。と思います。
また、若年層の貧困も問題視される中で、この件においては「夢」とか「本人の希望」を大人が利用するのも、使い古された搾取構造だと思います。
・女性は感情的…?
で、そういう論争の中で案の定「ブスババアの嫉妬」「女は感情的ですぐ否定する」みたいな言葉を見かけて、いつものことと言えばいつものことなんですけども。
これ、むしろ、男性の生きづらさにつながるキーワードなのでは?と思ったので、ここを少し掘り下げさせてください。
・ちょっと脱線する
ブスババアとオタクとフェミしかいない世界線なわけじゃあるまいし、脳内登場人物が少ないというか、人物解像度が低いなぁ、という印象…オタクであり社会人として生きると、人間もっと複雑で色々だなと痛感します。そういう分類の仕方自体、もうそろそろ見直されたい世紀。
そして、他者をそうやって分類して安心しているとき、見落とされているのは自分自身だと思います。序列の中のどこにいるか、ではない、自分自身。
・男性性の生きづらさ
女性=感情的、というレッテル張りをすることで、男性=非感情的としてしまうと、男性の感情発露はどこへ行くんだろう、と思うんです。
その、発露しづらさが、言えなさが、辛さになってしまわないかなと。
男性にだって様々な感情や思考はあって、嬉しいもあれば楽しいもあるし、愛おしいもあれば萌えもある。こわいもあれば怯えも不安もある。繊細さもある。あっていい。性欲もあるでしょうが、性欲と一言でいってもそれもいくつかの要素が混ざっていると思います。
加害側の性としてのイメージだけ増大していくことがしんどい方もいると思う。たとえ事実に基づいていたとしても、というか、だからこそ人の心を折ってしまうかも。だって、一切そういう欲が無い、と言い切ることもまた、不自然である(と見做される)社会構造。
・性欲
①シンプルに性的な欲求(衝動)
②コミュニケーションの希求
③支配欲、優位性の誇示
④他者からの受容を通した自己受容(受け入れられたさ…②の中にあるのかも)
⑤同じ性指向間での共通言語(②と③の混ざったような…エロネタのためのエロ的な…このためだと無理をするケースもあるのかと推測)
⑥非日常、ファンタジー(ある種現実逃避様態)
私はなんの話をしてるんだ、って感じですけども。
昔、性暴力の被害(と言えるほどかどうかは以下略)を受けたときから疑問だったのですが、性欲だけの話なら、自慰でいいのでは???と思っていたのです(もちろん人から見えないところで)。
ましてTENGAをドラッグストアで堂々と売っている時代。なぜ他者の嫌がることをする…?と。(その理由は②、③あたりにありそうだなぁと)。
ちなみに女性性も①、②、④、⑥あたりはあるのかなぁという印象(てきとう)。
どちらにしても性欲自体の否定の話をしてしまうと、苦しむ人を増やしてしまうのではないかと懸念。
心を亡くすと書いて「忙」しいのなら、心を生かすと書いて「性」。
ここに、取り扱いを間違えることで、人を大きく傷つけてしまうことのヒントがある気がしています。心を殺す場合の性は、じゃあ何なんだろう。
※かといって、このへんの有耶無耶のツケを性風俗に従事している方に全て押し付けるのも違う…そういう側にいて、その無責任さも、忘れてはいけないと思う。
・そのなかでのオタク性
でも、私の中のオタク性が悲鳴を上げているのは、だいたい②です。だって、オタク、社会の中でも浮きがち。コミュスキルバリ高ならオタクになってない…もしくは、その仮面の厚さは計り知れない。ありのままの自分=キモい。
・利用されるオタク(非モテ)
この辺、単なる被害妄想ですけど、オタクのオタク性を強者男性(仮)に利用されるのはこの辺だと思うんです。この辺を利用されつつ、結局男性社会的序列内に組み込まれてしまう…ような気がする。憶測に次ぐ憶測。
なんというか、他者にとっての兵隊化。駒化。資金源化。それって結局搾取されてもいるわけで。その劣等感自体をもう手放していいんじゃないかなと、自分事として思います。それ(劣等感からくる傷つき)が流さなくていい血を流す…。
・からの、若年層への希求、妄想
JCだのJSにバブみを求める作品は多々あって、そういうのって、こっち(オタク)の理想盛り合わせというか…お子様ランチみたいだ、といったら、オタク自認の方に刺されるでしょうか。刺さないでください。
だって・若い(①)・スレてない(②)・放っておいても自分が優位(③)・でも甘えたい(④)・世間を知る前なので操作しやすい(③)・かわいいかわいいと愛でられる(奉仕した感覚を得られる…これも優位性)(②のつもり)・実際に肌とかきれい(①)・チョロい(③)・口封じしやすい(逮捕されなければ⑥で済む)・責任取らずに逃げられる(③)・自分を品定めされない(③)・性を通しても生々しさがあまりない(⑥)
というように、オタクも様々なので憶測も混じっていますが、自分の中を解体するとこんな感じです。
ただ、私に関して言えば、実行する欲はありません。子どもに性的興味はないです。それを向けられるおぞましさを知っているからしないです。けど、そういうフィクション(創作)は見たことがあるし、漫画なんかでも通常の出版社から出ているものをいくつか所持しています。違法性はない…。
・で、なんの話でしたっけ(しらん)。
そう、このへんを社会につなげると…一般社会からすると、つなげんな、つなげてくれるな、という話かもしれないんですけども。
でも、②…②だけに着目すると、もっと他にいろいろ出来ることはあるんじゃないのかなぁ、社会(の一員としての私)、などと思うのです。
実行に移す前のそれを罰するのではなく、実行に移さなくてすむ何かが、②のなかに…つまり、関わりに…変容の芽を育てることはできるのではないかと…それが、知ること…たとえ闇でも…
・からの多様性という言葉に対する姿勢
私は、自分で自分のことを偏見まみれの差別野郎だと思ってます。
実際、見ている世界はまだまだ狭く、人との関わりも苦手です。
そういう中で言葉を書いたのが前回の記事なので、傷つけた人がいると思って書きました。
自分の偏見を更に明るみに出すために。
私は、まだまだ、人を傷つける、加害側にいる人間だと思います。
被害だけで終われたらよかったのですが、その傷の対処方法もわからず、たくさん人を傷つけるような言動をしてきました。
反省では足りないので、生きて、少しでも変えるためにじたばたしてきました。でも、それを何度でも、自分が自分を裏切ります。
なので、書きました。
前回の記事を読んでくださった方がいたら、今回の記事も読んでくださるといいなぁ。
性っていう、誰でも、命とセットで持っているものをお互いに否定しないで済む社会にしたいです。
それによって傷つく人がたくさんいる社会で、どうにか、暴力や搾取じゃない試みがたくさん生まれるとよいなと思います(フェムテックは…なにより当事者の声をもっと真剣に、誠実に聞くことから始めて欲しい分野です…)。
そのための、セクハラなどを含むハラスメント、性暴力反対の姿勢です。
双方がたのしい性は、いいんじゃないですか。遊ぶ生物、にんげんだもの。
(ただし、現状男性向けだったり、お金次第なところが大きいので、不均衡や搾取をたくさん生んでいるとも思う)。
男性性も恥の感情や不信をたくさん植え付けられてしまっている分野なのではないかと…今は思う。
なんか、社会全体いろいろ、ルールに縛られたり、正しさを求めたり、息苦しかったり、不安だったり、するのも全部、社会にいるからで、でも、社会にいるってことは、そこに自分じゃない人がいるわけで。
私は、そこにいる人に対する想像力を養うことをやめちゃいけないんだと、改めて思いました。
映画や漫画が好きなのも、そういう、誰にも言えずに、苦しんだり孤独でいる人に、光を当ててくれるからだとも思う。
周りに気持ち悪がられようが、決めつけられようが、居場所がなかろうが、自分一人じゃないと気づける、その光を私はたくさん見てきたはずなのに、それをぶち壊して、傷つけるようなことを書いてしまい、すみませんでした。
自分の傷つきを理由に、誰かを傷つけていいのか、自分に問い続けてきましたが、それはいけないと思っています。
自分のことは自分で治せばいいと、今は思えます(※個人的な考えで、他の人に対しての言葉ではないです)。でも、他の人につけた傷は私では治せない。だからこそ、他者が他者に振るう暴力も肯定しない。
そう思うことの連続です。
いま我に返ったんですけど、また無駄に長いな。
唐突だけど終わります。
前回書いたご自愛くださいっていうのは、そういう感じです(?)。
私も、私の至らない点を含めて、知って、できるだけ…甘やかすではなく、愛そうと思います。愛って全く甘くない。見たくないものだらけ。
でも「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は育たじ」。愛を社会の中に育て、守るべく、今日も一歩、明日も一歩です。
すごい人、優しい人って、だいたい、ものすごくそういう…傷つきや、大変さや、苦しみを乗り越えている。
柔らかく、強く、光っている人の輝きは、そういう命の輝きなんだと思うので、それに憧れた身、ゆるゆると進みます。
ダイヤモンドだって、削られまくってのあの輝き。
輝くってしんどいわ…( ´ω` )←くすみカラー生物。