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「婚約指輪はどこへ消えた?」        第1話(全8話)小説 #創作大賞2024

【あらすじ】

「僕と結婚してください」

 高級レストランで、勇気を振り絞ってプロポーズをした川野陽介だったが、なぜかジュエリーケースの中からそこにあるはずの『婚約指輪』が消えていた。

 バイト生活なのにお金に不自由していない妹の蘭、悪友で陽介から借金があるトオル、会社の同僚で陽介にストーカーまがいの行動を繰り返す内藤飛鳥。次々と浮かびあがる容疑者たちを前に平凡で気弱な陽介は苦悩の日々を送る。

 そんな陽介が頼りにしたのが、母が長年信頼を寄せている宝石売り場の赤坂だった。

「僕の婚約指輪はどこに消えたのでしょうか?」

 困り果てた陽介に、赤坂が探し当てた『犯人』は予想もしない意外な『人物』だった。 

          【第1話】

「ゆ、指輪が……」

 そう小さな声でつぶやいた美香の声が震えていた。
 だが、震えていたのは声だけではなかった。
 陽介の方に向けた美香の右手の人差し指も微かに震えていたのだ。
 彼女の差した先にはまるで真珠の貝殻が開くような恰好をした陽介の両手があったが、その手の中にはパカッと上下に開けられたジュエリーケースがあった。

 僕と結婚してください、と勇気を振り絞って告白をし、彼女の答えを待とうと下を向いていた陽介がおそるおそるたずねた。

「こ、こんな婚約指輪じゃあ……ダメってことかな」

 陽介が顔を上げると、テーブルの向こうの美香と目が合った。
 彼女の目からは今にも涙があふれそうになっていた。
 これ以上なにも話したくない。
 陽介の目にはそう映った。
 だが、どうにか美香はその口でなにかを伝えようとした。

「そういう問題じゃなくて——」

 だが、そこまで答えると、美香が大きな声を上げながら泣き崩れた。

指輪が……指輪がないのよ


 その瞬間、夫になる予定だった陽介の動きが止まった。
 動きが止まったのは陽介だけではなかった。
 『サプライズのご協力』で二人の後方に控えていた長身の男性のウエイターと、大きな薔薇の花束を持った女性のウエイトレスの動きも完全に停止してしまった。

 三ヶ月分の給料をつぎ込んだはずの婚約指輪がいつの間にか、陽介の手から消えていた。

「指輪はどこに消えた?……それにしても……いったい、誰の手に……」

 高級レストランの席に一人残された陽介はいつまでも空っぽのジュエリーケースを見つめていた。



「はー……」

 もうすっかり目は覚めているはずなのに、いつまでもベッドから起き上がることができないでいた。
 いや、目が覚めているどころか、陽介は昨晩、一睡もできなかった。

 天井を見つめる陽介の目の前に昨夜の光景が浮かんできた。
 テーブルのキャンドルの灯りが水色のワンピースを着た美香の横顔を仄かに照らしていた。

 都市部近郊、平凡な家庭に生まれ、大学も会社もお世辞にも一流とはいえない陽介にとって、これまで目にしたことのない高級レストランだった。
一等地の駅近くのビルの上階にあり、夜景が売りの名門レストランだった。

 普段はデートといってもファミレスが多く、まして、陽介が一人で食事をする時はもっぱら低価格が売りのラーメンや牛丼ですませることがほとんどだった。

 そんな陽介が清水の舞台から、いや、東京タワーから飛び降りる覚悟でレストランに行った理由は、美香がSNSで店の紹介文に『いいね』を押したのを目にしたからだった。

 もちろん、理由はそれだけではなかった。


『三十歳までに結婚したい』


 結婚にそれほどこだわりを持たない美香に対し、陽介は二年前に付き合いはじめた当初からそう心の中で強く意識をしていた。
 数ヶ月後に三十回目の誕生日を迎える陽介はプロポーズを成功させるべく、ありとあらゆる準備を重ねてきた。

 本来は今日、つまり五月十八日、土曜の夜に食事に誘う予定だった。

 しかし、たまたま二十六回目の美香の誕生日であったことから、昨日、金曜日の夜、レストランに向かったのだった。



 パジャマ姿の陽介はリビングダイニングに向かった。
 ドアを開け、中に入るといつも座る陽介の席のそばでボーダー・コリーの雌のナナが寝そべっていた。
 体のちょうど中央、頭から口、胸にかけて白い毛が生えており、それ以外、つまり左右の目や耳が黒い毛だった。

「おはよう、ナナちゃん」

 力なく陽介がそう声を掛けようとする前に、すでにナナは陽介の存在に気づき立ち上がっていた。

「クーン」

 挨拶を返すように泣くと、ナナは部屋から出ていった。
 イギリス原産、牧羊犬であったボーダー・コリーはある大学の研究によると全犬種の中で最も知能が高いとのことだった。
 実際、のみ込みが早く、しつけに苦労することもなかった。
 ちょっとした訳があり世話をすることになったのだが、思慮深く、忠実であるナナは陽介のよきパートナーだった。

「あら、やっと起きたのね」

 すぐに母が、そのすぐあとにナナが部屋に入ってきた。
 陽介の足元の近くでナナがお座りをするように座った。

「起きてこないのかと思ったわ。もう、お昼よ」

 そう言いながら、母は陽介の前にランチョンマットを敷くと、その上にバターロール三個とコーヒーを置いた。
 長袖のピンクの襟付きのシャツにジーンズを履いた母が向かいの席に座りながら、お父さんはゴルフよ、とつづけた。

 長年、歯科医院の受付でパートとして働く母は家族思いではあったが、少し神経質なところがあった。それは潔癖に近いといってもよかった。

 あまり食欲がなかったが、食べないと母が心配するのでパンを頬張った。
 陽介の口に入ると同時に机に飛び散った微細なパンくずを母が反射的に雑巾で拭いた。その姿を見ながら、

 ……とてもじゃないが、昨日の指輪のことを母には聞かせられない……

と、心の中でつぶやいた。

 当然、プロポーズの件も母に相談していなかった。
 仮に、ミカちゃんに断られでもしたら、ショックでパートを休みかねない。そう心配してのことだった。

 だが、婚約指輪がスムーズに購入できたことは、母のおかげといってよかった。

「赤坂さんがね——」

 物心ついたころから、陽介が耳にしてきた名前だった。
 その女性(陽介は一度も会ったことはなかったのだが、母の話から女性であることはまず間違いなかった)はデパートの宝石売り場の店員だった。
 かなり信頼のおける人物のようで、母は数十年来その店で宝石を購入していた。
 高価なものからカジュアルなものまで幅広く取り揃えているところがお気に入りのようで、銀婚式の記念の指輪もその店のものだった。

 その店で買った赤の手提げ袋を嬉しそうに持って帰宅する母の姿が陽介の脳裏に焼きついていた。

 そんなことから、陽介は美香との婚約指輪を『赤坂さん』の宝石店で購入した。


 ……でも……その婚約指輪がなくなってしまって……。


 母がテーブルを拭く姿を見ながら、陽介がそうもの思いにふけっていると、

「おいしそう!」

 その声が聞こえた時には、もう陽介の皿にはパンはなかった。

「いただき!」

 すでに陽介のバターロールは妹である蘭の口におさまっていた。
 白のタンクトップに今にも下着が見えそうなピンクの短パンを履いていた。

「こらっ! 駄目じゃない、蘭!」

 ヒステリー気味に母が声を上げた。
 陽介に忠実なナナが蘭を見上げていた。

「いいよ、母さん」

 半ばあきらめ気味に陽介が言った。

 ……今にはじまったことじゃないから……。


 三歳年下の蘭は欲しいものがあると、誰のものであれ、さっと奪ってしまう。特に、相手が陽介だと躊躇のひとかけらもない。

「ヨウスケのものはわたしのもの。わたしのものはわたしのもの」

 このどこかで聞いた名言を、これまで何度聞かされたことだろうか。
 そう心の中でつぶきながら、陽介はコーヒーを口にした。

「ねえ、蘭。あなた、昨日何時に帰ってきたの? よくそんなに毎晩お金がつづくものね」

 半ば嫌味な口調で母が蘭に言った。
 母がそういうのも無理はなかった。私立の四年生大学を卒業後、蘭は定職につかず、二十六歳になった今もフリーターをしていたからだ。
 だが、フリーターにもかかわらず常に何かしらのお金を持っているようで、卒業後すぐに一年間ほどアメリカで生活をしていた。

「へへ、まあお金のことは安心して。ちょっとした特別なルートがあってさ」蘭がいたずらっぽい表情を浮かべた。「割のいいバイトがあるの

「ねえ、蘭。お願いだから警察にやっかいになるような仕事だけはやめてよね」母が口を尖らせて言った。

「そう言えば——」蘭が人差し指を立てて、ゆっくりと陽介に向けた。「ヨウスケ、昨日、デートだったんしょ?」

「え?」陽介の口から驚きの声が漏れた。ど、どうして知ってるんだ、こいつ。

「あれ? そうなの、陽介。ねえ、彼女いるの?」
 すぐに母が眉間にしわを寄せた。その皺は心配した時にいつも現れるものだった。

「違うよ。仕事場の飲み会だよ」陽介は嘘がばれないように、平然と答えた。だが、

「バカね、嘘ついてもダメよ。だって、ほら——」
 そう言うと、蘭は陽介の顔を指さした。
「鼻、触ってるじゃない。ホラッ、噓つくときの癖」

 そう指摘された陽介はいつの間にか触っていた手を鼻から離した。
 その様子を見て、蘭はヒャヒャという笑い声を上げた。
 慌てる陽介の肩に手をまわした蘭がたずねた。

「で、昨日はどうだったのよ? 楽しんできた? ふふ」

「な、なにいってるんだ——」

 そう陽介が言い返そうとした時、蘭の手がある場所に目がけて伸びた。

「うわぁ!」

 思わずそう叫ぶと、陽介は椅子から立ち上がってしまった。

「こら! 蘭! 何してるの!」怒鳴りながら、母も席を立った。「陽介の股間なんか触って!」

「いいじゃない。確認しただけよ。元気かどうか」

 そう言うと、蘭はあっという間にリビングから出ていった。

「待ちなさい!」

 その姿を追って、母もリビングをあとにした。
 決して首を突っ込まない、と陽介が誓っている母と蘭の戦いが始まろうとしていた。



「はー……」

 気がつくと、陽介の口からため息が漏れていた。

「まったく、あの妹は——」

 そう言いかけた時、少し離れたところで陽介を見守るナナと目が合った。

『気持ちはワタシが一番わかります』

 陽介はその目がそう語っているような気がした。

 実は、ボーダー・コリーのナナを飼い始めたのは、妹の蘭だった。

「絶対、自分で面倒を見るから!」

 家族全員、満場一致で反対したが、『聞く耳』はどれだけ捜査員を大量に派遣してもどこにも見当たらなかった。

「誰にも迷惑かけない!」

 なんの役にも立たないことは重々承知の上、その旨の念書まで書かせた。

「うわ! かわいい! 死ぬまで一緒だよ!」

 だが、そう喜び、散歩に連れていったのは、残念ながらほんの一週間だけだった。

「イヤ。散歩、めんどう」

 その一言を蘭が言って以来、ナナはあっさりと『捨てられる』ことになった。
 もちろん、血統書付きの高額な犬を捨てるわけにはいかず、地球に重力があることと同じように、(当然のこととして)陽介が代わりにナナの面倒を見ることになった。

 全犬種の中で最も頭がよいと言われるボーダー・コリーのことだけあって、ナナはそのことを恩義に感じているようだった。


「指輪は……指輪はどこにいったんだろう……」

 例の件を思い出した陽介がそうつぶやいた。

 自分でなんとか探し出す。
 そう誓った陽介だったが、彼には致命的な欠点があった。
 問題がおこったとき、自らの頭で考えることが苦手なのだった。

「どうすればいいんだろう?」

 漂流者の気持ちが陽介にはわかった。
 暗い海を、どこまでも一人で流されていくような気持になった。
 不安だった。

「クーン」

 その様子を見かねたのか、ナナが陽介に声を掛けてきた。
 悲しげな声だった。
 心配そうな表情で雄介を見つめていた。

「ナナちゃん……ありがとう、お前だけだよ。僕の味方は」

 不安だった陽介だが、ナナに励まされ元気になった。


「ミカちゃんと結婚したい。そのために絶対に指輪を見つけ出す」


 消えた婚約指輪の捜索が今まさにはじまろうとしていた。



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