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「最近あおいぼく一枚絵本は創ってないよねー」妻の一言。

「最近あおいぼく一枚絵本は創ってないよねー」妻の一言。
「ただ普通に思っただけだよ」って何気なく言ったそうなんです、その分、こころの傷に貼る言葉の絆創膏 ことばんそうこう🩹は創り出してはいますが確かにそうなんだよね。

別に創り出してないわけではなく止めている状態。

脳を使っている位置が違うと理解している

ことばんそうこうとあおいぼく一枚絵本は創る時使ってる脳の位置が違うと理解してます。
いや、同じかもしれない。
ただ創る大変さからするとやっぱり差はある。
ことばんそうこうが階段30段だとするとあおいぼく一枚絵本は階段250段くらい内容によってはもっとある、400〜500段くらい。
標高3mで15段が標準だそうで、すると1段20センチ。
ことばんそうこうは標高6m、あおいぼく一枚絵本は標高50m、下手したら80m〜100mにもなる。あ、高いね。

産み出せなくて難産になり、2日から下手したら1週間は寝込んだり考えたりする。
創造は自分と向き合い生まれてくるものだから、あおいぼく一枚絵本は大変さはかなりだよね。

年齢・環境・考え方・伝えたいこと・感じるもの

次来る誕生日で40歳。あおいぼく一枚絵本を創り始めたのは21歳の1月5日、あれからもうすぐ19年、「今の環境」から来る考え方伝えたいことは変わるし、感じるものも違う。
伝えたいことも変わったし、自分自身も変わったし、葛藤することも違う。遊び心を忘れかけてる。昔はもっと創るのを楽しんでいたし、もっと子供だった。
だからって大人になっても子供心は忘れてないつもりだし忘れたくない。
ってこれ書いてる時点で子供っぽくなくなってる…(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
「作品の感じ変わりましたね、私はこっちの方が好きです」と数年前にとある女性記者さんから言われた言葉は良い意味で今も引っかかってる。
良い意味での哲学や心理学が出てきた反面「哲学や心理学の入り口」として描いてきた作品達は果たしてその色が薄いのかなって。いや、違う。濃くなったんだと思いたい。描いてる限り成長してると思いたい。

周りの反応と自分の反応は違う

ぶっちゃけるとことばんそうこうは創ることで周りの方から喜んでもらえることを感じるし、作品を商品にすることで観てもらえる機会も反応も頂ける。
あおいぼく一枚絵本は創ってもその後の発展が自分の中ではあまり感じてなくて商品としてもポストカードや額入りの大きい版、またはTシャツとかバッグにプリントとか。
あ、あおいぼく一枚絵本もシールにしたらいいじゃんね。
本当を言うとそろそろまた絵本集にしようかなと思ってもいます。でもどうしたら?って思ったらやっぱりクラウドファンディングで皆さんと創りたいな。

信念を貫く

結局なところ「死ぬまで創り続ける」が答え、もうこれだよ、俺には。ってなってる。
孔子の論語にある「五十にして天命を知る(五十歳で天命を知った)」ってあるけれど、「俺、四十で天命と思うものに出逢えた」って思えてる。
「カッコいいじいちゃんになる」って20代の目標、まずは「カッコいい父ちゃん」になれるように精進しなくちゃ。

兎にも角にもまずは自分のしてる「命を描く」ことで世界を良い意味で革命を起こすことを貫くしかないのですよ。

今創ってる作品のページ。
ここから進めて今92%くらい。
家族から「邪魔してやろーぜ」って横に来て話しかけてこられても変顔して切り抜けました。
あと最後の仕上げを、大畑哲也色にします。
妻に考えた内容を言っても「・・・(O_O)」って反応だったからもうちょいわかりやすい方が良いな(^◇^;)

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