二百三高地

やっぱり戦争はいけない

 すごい大作だった。日露戦争を勝利に導いたのは児玉源太郎だが、この映画の主人公は、無能のそしりを甘んじて受けた乃木希典だ。映画にしろ小説にしろマンガにしろ、だめな人が主人公だ。だめな人には感情移入しやすい。しかし、それが多くの人を死に至らしめる戦争の指揮官となると、人間味という綺麗ごとではすまされなくなる。

 伊藤博文の顔は千円札でしか知らないが、演じる森繁は国の将来を案ずる真摯さと狡猾さといやらしさが同居していて、伊藤博文にしか見えない。乃木希典もいろんな逸話から思い描ける、まじめ一徹な姿がそこにあった。児玉源太郎は、今となってはあまり知られていない偉人だろうが、周南市には児玉神社に神として祀られ、菅首相の子息はあやかって名付けられたと言っていた、そんな軍神と呼ばれるにふさわしい英明さと意志の強さが見事に表現されていた。

 この作品では、日露戦争を指導した幕僚だけでなく、前線で戦う兵士たちの苦悩も描かれている。両方描くには、3時間半に及ぶ大作にならざるをえなかっただろう。インターバルで、緊迫した戦場シーンから、さだまさしの歌に入り、その歌詞を画面に流すのには驚きだった。歌詞のメッセージが強く訴えてくることは分かっていたが、それを音だけでなく文字を重ねることで、観る者の胸に刻まれる深さが増すことに驚かされた。

 この作品には、いくつも人の心を揺すぶる要素があった。ロシア文学を愛していた青年が、ロシア人を敵と見て殺すことに躊躇がなくなる変容。愛する男を思い続け、戦争という個人には抗いようのない社会に翻弄されること。多くの兵隊たちが死んでいる中で、神経痛だからとストーブにあたる参謀の自覚のなさ。そんなだめな参謀を咎めず、やさしい目を持つ乃木。それでは勝てないと指摘する児玉。

 ロシア文学青年の変貌は、見事に戦争の苦を表していた。ロシアに親近感や敬愛の情を抱いていたのに、戦場に立つとロシア人が敵になった。それが戦争の怖さだ。理屈ではない。もちろん、理想など挟める余地はない。今もロシアは戦争をしている。戦場でなければ友達になれたであろう人たちも、戦争という場におかれてしまえば、どうしたって敵意を増幅させ人殺しの機械となってしまう。

 そうした不幸を防ぐことができるのは、指導者たちしかいない。しかし、過去の戦争では多くの人を不幸に陥れてしまった。戦争を回避できなかった段階で、すでに指導者としては手尾レベルだと言わざるを得ない。

 今もロシアはウクライナと戦争している。中国は台湾ときな臭い。アメリカや西欧諸国は、これらの戦争を収めようとしているのか煽ろうとしているのか分からない。そんな大きな話でなくとも、身近な会社の経営者が、避けられるはずの諍いを無駄に大きくしているなんて事例は、そこらに山ほどある。

 人の幸せってなんだろう。少なくとも、戦争をしないことだ。殺さないこと、人を苦しめないことだ。人に迷惑をかけずに生きるなんてことはできないから、せめて、自分は人に不正を働いていないと思って生きることだ。どんな組織であれ、長の付く役職にある人は、部下の家族まで視野に入れて、苦を生じないように努めることだ。それができないのが戦争だと、この映画は教えてくれる。


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