尼僧物語
3
形をとるか、実質をとるか
オードリー・ヘプバーンが尼になる。この時代の尼は看護師として働いていたのか、西洋の社会史を知らないから、この時点で理解の基盤ができていないのだが、いまさら仕方がないので、日本ドメスティックで分かる範囲で考えるしかない。ヘプバーンは父が医師で、医学に詳しい。出家する時に、部屋の壁に掛けているマザー・テレサの写真を見て、薬指から指輪を外す。セリフはなく、この動作がヘプバーンの決意を表現する。
教会に入ったヘプバーンは、自尊心との闘いに直面する。おそらく昔の医者は社会的に尊敬される地位にあり、その娘として気位高く育ったのだろう。さらに勉強もできたから、教会の中でも他の尼に負けることがない。コンゴで働こうという、崇高な願いは叶って当然と思っていたのだろう。
そしてヘプバーンは先輩から、従順の修行を命じられる。全てにおいて教会の掟に従うことは、尼全員に課せられることだが、ヘプバーンは特に自尊心の高さ、仏教でいう増上慢を、先輩の尼にたびたび指摘される。誰にも苦手なことがあるが、ヘプバーンには自尊心が信心の妨げとして認められ、コンゴ行きの試験で落ちることを求められる。
ひどい修行だ。修行とは、苦しむことなのか。釈迦は苦行の末に、修行は苦しむものではないと悟ったという。確かに苦しい修行を乗り越えた坊さんは、すごい。けど、その立派さは、夏のガマン大会でどてらを着てストーブを囲む、昔の漫画に描かれるような滑稽な立派さだ。
しかしヘプバーンは、その試練によって自分の限界を知ることができた。頑張っても、ただ神に従うことはできない。ましてや先輩尼の指導の通りに行動することなどできない。それは普通のことだし、一般社会ではむしろ讃えられることだ。宗教の閉じられた世界は、一般社会とは異なる。
この作品を見ていて、キリスト教も仏教も同じことをする、と思わせられた。修行中に、他者と話すことは禁じられるし、先輩に絶対服従の上下関係があるし、壁に偉い僧侶の写真がかけられてたりする。今の日本仏教は荒行が行われているように、おそらく釈迦の教えとはだいぶ離れた仏教なのだろうが、キリスト教でもおそらくイエスの伝えた教えから離れた修行が行われているのだろう。ただ、それで何かしら人間としての成長がないわけではないから、宗教は難しい。
この映画で、精神病棟の描写があった。温浴療法で患者は、棺桶サイズの風呂桶に入れられ、首の上だけ蓋から出されている。泣き叫ぶ患者もいるが、風呂桶から出されるわけはない。教会という細かな規則の枠組みが、この風呂桶という隠喩で表現されたのだろう。ということは、尼は精神病患者ということか。
神に全てを捧げる、と言うが、sacrificeは受験の時、犠牲、と覚えた。全面的に神に従うことになれば、それは、捧げる、であり、違う見方をすれば、犠牲、ということだ。それが幸せへの道であることは恐らく間違いないが、悪い奴に利用されれば、神ではなく、悪い奴の犠牲になる。それを承知で、一般社会では通用しない規則を受け入れて生活する尼たちは、病に侵されていると言われても仕方なかろう。
煩悶しながらもヘプバーンはコンゴに行けることになる。現地の医師にも信頼される存在となり、ちょっと男女間の恋心も匂わせるが、指令で帰国することになる。戻った故国は戦争中で、尼はどっちにも味方してはならないと訓示される。
しかしヘプバーンは、父がドイツ兵に殺されたとの知らせを受け、還俗することを決意する。ドイツ人看護師が殺されたことを喜ぶ心があり、さらに父を殺したドイツ兵への怒りはどうしようもなかった。許す、ということがどうしてもできないと、自責を重ね、そして耐えられなくなった。
そりゃそうだろう。誰かを信じて全てを委ねる、なんてまともに頭が働いているならできるわけがない。まともに頭が働かないまでに苦難、思索、懊悩を乗り越えた先で、本当に信じ切ることができるのかもしれない。とても凡人には真似さえできない所業だ。
釈迦は、依法不依人、と教えたそうだ。阿弥陀やキリストに依るのも、ある意味、依人なのだろうが、この世で会うことはなく、その時々で言が異なることはないのだから、その人の言ったことを法と解釈すれば、依法不依人に反するわけではない。先輩の尼の指示に唯々諾々と、何も考えずに従うのは、もしかするとそれがキリストの教えのままなのかもしれないが、2千年も前に伝えられた教えだから、いろいろ付け加えられたり、曲がったりしている可能性も否定できず、依人になる恐れがある。
ヘプバーンは結局、教会を出て行って、映画が終わる。厳しい修行を経て、増上慢もいくらか抑制できるようになり、コンゴで人々を救い、教会内でも評価されるようになったのに、去ることを決めた。自分の中にある罪を、神と自分は欺けないからだと、先輩の尼には言葉で説明する。
しかし作品の冒頭、出家するシーンで、ヘプバーンの部屋の壁にはマザー・テレサの写真が飾ってあった。彼女に憧れて尼になったヘプバーンは、コンゴで苦しむ人たちを救うことができた。人を救うことは、信仰者でなければできないのか。おそらく信仰があれば、苦難に直面した時にも折れることなく、人を救い続けることができるだろう。しかし信仰が衆生救済に必須の条件ではない。現に町に出ると、いろんな人が誰かの役に立っている。人を救うのは医者や僧侶だけではない。ましてや教会の中だけではない。看護していて鐘が鳴ると、礼拝のために看護を中断する、などという規則は、もし宗教が人を救うためのものだとすると、本末転倒だ。
ヘプバーンは、信仰を捨てたのではなく、そんな組織第一、聖職者第一の教会という仕組みに別れを告げたのだろう。教会を出て、去っていく時、歩みが淀んだ一瞬があったが、その後、ヘプバーンはまっすぐ歩いていく。そして曲がり角では、自分で判断して右折していく。組織が硬直してしまうと、本来の目的を果たすためには、尼の衣を脱いだ方がいい場合もある。